見出し画像

【一首評】〈第三回〉白い光だなんて、教わっていないし、でもさわっていたから、ごめんなさい/笹井宏之

白い光だなんて、教わっていないし、でもさわっていたから、ごめんなさい
/笹井宏之(『えーえんとくちから』)

 白い光とは、幸福の象徴だろうか。目の前に座る人のかすかな微笑みや、早起きした時の朝の匂いや、誰かから向けられたやさしさや、そういう、ふと気づくとあたりに揺蕩っている祝福の光だろうか。

 
 地方の住宅地を車から眺めれば突然チャペルが現れるし、夜の都会のレストランにはバースデープレートの火花が散っている。気が付けばみんな当たり前のようにしあわせを身に纏っていて、その当たり前の形に合わせて世間はゆるやかに成り立っている。しあわせを手に入れた人間と、それを取り囲む世界は、互いに頷きあっている。


 目の合わせ方や、食事は人と仲良くなる口実であるとか、おしゃれなカフェに入っても誰にも怒られないのだとか、朝の光を浴びるべきだとか、私たちはそんなことを誰にも教わらない。SNSで恋人の手元の写真を乳白色のフィルターにかけ、幸福を上手に仕舞い込む人の影で、典型的な幸福のかたちに押し広げられた世間に、そしてその前に立っている自分に戸惑う人々はたしかに存在しているのだ。この歌はそんな人間の歌なのではないか。


 白い光はあまねく人々に降り注いでいる。物陰から出てしまえば最後、白い光に触れてしまう。首筋や、頬や、つま先に光がやわらかく触れて、彼らは思わず手を触れる。その光はきっと、初めて自分で買った服の匂いであったり、人と向かい合って食べたパスタの味だったり、夜中にカーテンを開けた時に部屋に満ちる月明かりだったりするのだろう。どうしたって人はしあわせに触れてしまうのだ。それが世間にとってあまりにも小さく、取りこぼされるようなものであったとしても。


ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした
/笹井宏之(『えーえんとくちから』)


 同じ作者で、こんな歌もある。
 しあわせは『ふわふわ』で『白い光』なのだ。直視するには眩しく、つかんだ実感も湧かない。しかしやわらかくて暖かい。自分がそれを知ってしまったことをかなしく、『ごめんなさい』と申し訳なく思うほどに。


 はたして自分が幸福にふれていいものか、戸惑いながら生きる人がいると思う。白い光が正面から訪れて、睫毛にふれて、瞬きのたびに目の前ではじける、その瞬間を恐れながら過ごす人がいる。
 この歌は、そんな人の背中に静かに寄り添いつづけるだろう。
                        
                           (2年 髙橋)

いいなと思ったら応援しよう!