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【一首評】〈第5回〉楠は丘にゆったり広がれりゆえに多かり見失うこと/前田康子

 楠(クスノキ科ニッケイ属)は常緑高木で、日本では比較的様々なところで見ることが出来る種類の木だ。例えば、近くにそれなりの大きさの神社があれば行ってみると良い。常緑という性質上、生命のシンボルとして神木に選ばれ、祀られている場合が多いそうだ。匂いには防虫効果もあり、厄除けとしても好まれているとか、なんとか。
 私はこの句を評するにあたって初めて、楠がずいぶん身近な存在だと知った。

「楠は丘にゆったり広がれりゆえに多かり見失うこと」/前田康子

「ねむそうな木」 ながらみ書房 1996

 
 これが収録されている「ねむそうな木」では、古文的な助詞・助動詞を用いた作品が多い。そのため、作品全体の雰囲気が普遍的で、固定された時間軸が存在しない印象も受ける。この楠も、固定的な時間軸のない、普遍的な楠だと思った。

 一度想像してみる。丘の上でのびやかに、「ゆったり広がって」そよぐ楠。葉は青々と風に揺れて、枝は巨人が腕を広げているように雄大だ。地面に落とす影だって、きっと広くて優しい空間になっているだろう。幹は人間一人では到底包み切れないほど太く、揺るがない。見ている私たちには不動の安心感を与えてくれる、悠然とした佇まいだ。

 だからこそ、私たちは当たり前に見失ってしまうのだろう。
 そこにあることに安心して、気に留めることもなくなっていく。
 悠然とした佇まいは、その存在を時にただの背景にしてしまうのだ。

 覚えはないだろうか。
 例えば、近くのコンビニエンスストアが閉店してしまってからそのありがたさに気が付くとか、ずっとあると思っていた母校がなくなったとか。
 生きていくうえで、人ひとりが知覚する物事は、それこそ星の数ほどに多い。そのなかでも「簡単には変わらないだろう」ものは情報の取捨選択において、重要度が低いとみなされ、ただの背景と認識されがちだ。
 少なくとも、私は今まで近所の神社の神木が楠であることは知らなかったし、気に留めてはいなかった。とても大きくどっしりした木、程度の認識だった。確実に人生の先輩であろう大木の存在を、一度はその生命力を認識したかもしれないが、その後は「見失っていた」と言える。

 この句はそういったものを改めて気づかせてくれるものだ。
 当たり前に見失ってしまうほどに素晴らしい存在が、当たり前に周りにあるということ。私はそれが少し寂しく、また嬉しく、どこか希望のようにも思えた。

四年
大内


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