【一首評】〈第4回〉濡れている 質量保存の法則によって誰かが泣き止むだろう/宇野なずき
まず意識が向くのは、唐突な「濡れている」の五音だろう。「濡れる」ことはマイナスの感情表現としてよく用いられる(し、後の文脈を踏まえてもおそらくそうだろう)が、ここではその原因については語られていない。雨か、涙か、あるいは濡れ衣のような比喩的なものかはわからないが、とにかく濡れている。この「濡れている」は「主体はいま何かしらの不幸に見舞われている」ということだけを表している。不要な部分を切り捨て、前提の設定を五音で完了することで、残りの音数に余裕を持たせている。
また、背景を描写しないということは状況を限定しないということでもある。主体が濡れている原因がわからないことによって、如何なる理由であれ「濡れて」さえいれば、つまり何かしらの不幸に見舞われた経験さえあれば読者が移入しやすくなる効果もあるだろう。
そして、この歌の主体は濡れている割にはやけに冷静だ。質量保存の法則を持ち出して、尤もらしい主張までしている。おそらくこの「質量保存の法則」は水循環とイメージを混同して使用されており、歌全体は「地球上の水の総量は常に一定なのだから、私が濡れることで誰かの涙が無くなるはずだ」という意味で捉えることができるだろう。後者の水が涙(≒不幸)として扱われていることを踏まえると、「私が不幸に見舞われたので、その代わりに誰かが幸福になるべきだ」ということになるし、「質量」はもしかすると「幸福」の意味で用いられているのかもしれない。
ところで、「質量保存の法則」という名前は有名だが、実際は「普通の条件下ではそうなるので、そのように扱う」程度のものであって、厳密には成立しない。これを念頭に置くと「質量保存の法則によって」の信頼度は少し下がり、「誰かが泣き止むだろう」も事実というよりは信仰とか願望のように聞こえてくる。
自分の不幸が、ただそれだけであってほしくない。誰かの不幸を肩代わりするとか、誰かの幸福に寄与するとか、意味あるものであってほしい。そういった願いが「質量保存の法則」に仮託され、さも当然叶うべきこととして語られている。明確な理論に基づいた推論のようでいて、どこか投げやりにも思える「だろう」からは、そういう祈りが感じられる。
(2年 滝)