ここまでありがとうございます『感謝の100回分を浚って』
はじめに
連載記事の100回突破を達成した。
この数の蓄積…は、自分の書き込み過ぎが影響しているのも去ることながらではあるが、やはりその裏には多くの人の支え。そして自分の探究心の持続となっている周囲への環境の偉大さが大きいだろう。
今回の特別編…実質、0.5回目となるような今回は、そうした今までの歩みを少しだけダイジェストしてみよう。
ACT.1〜6 長崎・九州編
連載記事最初の訪問となったのが、この長崎県である。
センバツ高校野球当たった場所行く…の企画の1つとして、当時のセンバツ高校野球で『龍谷大平安vs長崎日大』が実現した事がきっかけであった。
この時の長崎県は西九州新幹線の開業真っ盛り。新幹線によって、新たな気流の高鳴りを感じさせる旅路であった。
この旅路で楽しんだのは、やはり長崎市電である。
長崎市電は時の高校生だった時期のテレビアニメ/色づく世界の明日から…にも劇中の通学手段として登場し、長崎の交通手段として坂の多い街を支える存在となっていた。
車両のレトロさ、多様さもさる事ながら…ではあるが、やはり街に似合う車両たちの姿を記録している時間は本当に楽しかった。
いずれかはしっかりと徒歩での撮影、一日乗車券を携えての本格的な撮影に動きたいものである。
帰りはハウステンボスを経由し、最終的には広島県に出てから関西に戻る事になる。
長崎県内では少ない観光地として、グラバー園などを少し訪問するが、その話に関しては連載記事内をご覧いただきたい。
写真は、博多に戻るまでに撮影したハウステンボスの駅舎である。
オランダを意識したメルヘンな駅舎の姿は、現代人の心にも大きく刺さるものであった。
ACT.7〜9 広島離脱編
福岡の天神だったか…そうした場所から、翌日の4時?5時到着で広島県に上陸し、旅が始まったこの回。
この回が自分の中で最も酷だった。そう今では言えるくらいの旅路だったのは現在でも忘れない。
写真は、広電本社こと千田の車両基地を出庫する広電の車両。
タクシーも使わず。寒い道をずっと広島駅から徒歩で移動した千田車庫までの道のりは、現在でも達成感が高い。
この出庫撮影の際は、旧型車両で最も稼働率の高い京都市電の車両が稼働する姿…出庫の様子も撮影。
この時点では楽しかったし、まだまだ自分に危機が迫っている事には気が付かない。缶コーヒーをくれた地元の男性には頭も上がらないのだが…
この光景は京都府民としてどれだけ感動した事か。往時の九条や錦林で日夜繰り広げられた京都市の交通の基礎の風景がその場所にはあった。
はい、出ましたよ。コレ。危機がのしかかってきたのこの時なんですよね…
山芋のたまご定食。
半熟にしていたはずですが…
結局、
あ た り ま し た。
んーで、どうなったかといいますと。
最終的に点滴とお友達。
女医さんが急患で応対して下さったのも、今ではさらに大きな後悔に伏せる事になる要因である。
この千田車庫横の松屋で当たった半熟玉子以来、自分は『中途半端な加熱玉子、生玉子』が大嫌いな食べ物になってしまった。卵かけ御飯なんて生死を彷徨うガチャのようなものになってしまった。
あ、そうそう。
そうそう。
実はこの旅で広島にしかない交通機関である、『スカイレールサービス』にも瀬野駅から乗車。
現在は交通機関としての性能が高く高評価され、保存に向けての動きも進行中なのだとか。
近況は知らずとして、上手く成功すると良い話である。
最初で最後、大腸菌とお友達になってこの光景を見ていた自分。あぁ、なんて虚しいのだろう…
ACT.10〜14 高松京急探し編
少しだけの間、高松に日帰りの旅で向かう事に。
最初は山陽本線と瀬戸大橋線・土讃線を乗り継いで高松まで上陸…
しかし、この上陸の目的は
復刻京急車両。
この時、『赤い電車』を高松に呼び戻そうという京急ファンの団体の方々の情熱的な魂によってクラウドファンディングが実施され、復活した京急1000形。
その姿は多くの鉄道ファンの心を打ち、快晴の讃岐路に鮮やかなる京急1000形の姿が甦ったのであった。
大師線の姿…大師線のイメージといえばやはりこの車両で、図鑑などで思い描いた車両の復活となったのである。
最終的には長尾線に乗車し、木太の方から高徳線に乗車。
京都には深夜に戻る形になってしまったが、自分にとっては久しく浴びていない京急要素を濃く体験できたので、非常に充実した1日なのであった。
ACT.15〜18 養老鉄道と福井鉄道編
どうすればそうなるのだろう…感覚が満載だったこの旅路の繋がり。
しかし、実際には同じような場所だからと可決されて実行に移したのであった。
養老鉄道に関しては、年に何回か訪問するだけでこの時もかなり久しく行っていなかった。近鉄車の王国だった時代はよく行ったものの、東急導入後の事に関しては事更に知らない。
そんな中で参加した養老鉄道まつり。西大垣の車庫公開を満喫し、曇天の中であったが良い思い出を連休の最初に刻んだ。
車庫内の走行など、様々なネタはあったもののやはりメインは(大人の)この7700形…東急からの車両の撮影会イベントであり、
多種多様な表示を出す赤帯の東急車の懐かしい姿を楽しめる事が1つのウリであった。
但し、車両の表示が非常に見辛いのはどうにかしたかったところだが…
そして、夜には長浜に移動。
偶然に出会った客にカラオケスナックへの導きを受ける…などがあったが、やはり大きなイベントは翌日である。
北陸本線を長浜〜武生にて乗車し、北陸新幹線転換前の最後の乗車を叶えたのであった。
福井鉄道は、自分の訪問した前年…平成20年代とは大きく変化していたように覚えている。
えちぜん鉄道との直通運転を開始し、専用の車両や専用のダイヤが確立されてからは初であった。
そんな中、えちぜん鉄道のキーボに乗車。
急行運転を福井城址大名町まで体感し、路面電車車両とは思えぬ力を体感したのであった。
福井鉄道といえば、先ほども記したように路面電車車両による急行運転。
その中には、かつて名鉄で活躍していた車両の急行運転もあり、往時の美濃町線…通称、岐阜県名鉄600V線の面影を感じさせる走りには圧倒されたのである。
写真は、名鉄の名CM楽曲。『しなやかな風』をおイメージして撮影した写真だ。このアングルで何か琴線に触れる東海民の方も居るかもしれない。
この時の撮影メイン…
何故、福井鉄道に行ったのかというと、この車両。
F2000形であったろうか。
新型の車両を撮影したく行ったのであった。
角張った車体に、フルカラーのLED行き先表示。そして未来を感じさせる流麗な姿は、福井鉄道…路面電車の新時代の到来を思わせるに十分すぎた。
しかし。福井鉄道では運転士不足によって大きなダイヤ改正がこの後大胆に行われ、この訪問時と大きく変化している。
最後に。
この訪問が、自分にとって最後の北陸本線の乗車であった。
写真は武生駅であるが、もうこうした光景は戻ってこない。
特急街道であり、多くの人・モノを運んだ鉄道の長い長い歴史は新しいフェーズを迎えたのであった。
ACT.19〜33 九州走破編
この時に記した記事は、『九州グランドスラム』なんて言う洒落なタイトルが付随されているのだが、長崎に訪問していないあたり自分でも今更どうかなぁ…なんていう後悔がある。
そんな話ではなくて。
GW期間、何かと空白な休みの時期として九州へ遠征した。結果的にはやりたい事の詰め合わせ状態になってしまったが、
・オリックスビジター観戦
・西鉄に乗車
・九州で鉄道旅
と多くの思いを抱えての道になる。
初のパ・リーグビジター観戦となった、福岡PayPayドーム。実際に訪問してみると、かなり楽しいレジャー施設といった感じで、野球以外にも拡充ポイントがあったのには驚いた。
西鉄の遠征もセットにしていたが、翌日以降に回せばもっと良かったのかもしれない。非常にミステイクな事をしたと思う。
試合は宮城の好投によってオリックスの勝利!
幸先の良いビジター観戦の始まりであった。
もう1つの目的、西鉄遠征。
この遠征に関しては自分が天神・大牟田線系統の西鉄に乗車した経験がないものとして行ってみたかったモノだった。
下車印を増やせる特殊な制度があったので、西鉄に関してはそのリベンジとして『西鉄だけ』の旅路にもしっかり挑戦したい。
レトロなアイスグリーンの電車の旅は、不完全な終了をしているのでいつしかまた。
九州の1周のような旅路は、福岡PayPayドームに訪問した翌日からの開始。
大濠公園からスタートして、唐津を経由。そして佐賀に出て、鳥栖に入って熊本へ…熊本からは宮崎に向かって宮地・豊後方面に出て大分に出る。そして宮崎を経て、鹿児島へ。
最終的には鹿児島から一気に博多へ新幹線に乗車したのであった。
この時には、初の宮崎県上陸を達成する。
しかし、宗太郎越えという肝心のヶ所では中々の苦戦をさせられたものだ。
宮崎は鉄道での上陸が容易い場所ではないが、また次回の訪問では多くの事を吸収して帰りたい。
この話の最後の方に。
この旅では、自分の最南端記録を一定に更新する。
歌手・長渕剛の歌にも登場する宮ヶ浜にも行き、鹿児島県は指宿市まで到達した。
しかし、肝心の枕崎までは到達できず。改めて、山川・指宿と方面を確認してから臨みたい場所・路線である。
ACT.34 35系と広島編
奇跡とはあるモノだなぁ…と言う感じというか、もうこの旅路からは1年が経過しようとしている。
SLやまぐち号…にて老朽化した12系客車を置き換えようと開発された新型客車の35系4000番台に乗車して、山口線に再び挑むモノである。
かつて自分は山口線への乗車経験があり、その際には山口から湯田温泉。そして大歳での行き違いの停車とその乗車した時間はかなり短いモノであった。
なので、そのリベンジに。
今度はかなり楽な乗車で、SLやまぐち号…として肝心の料理に必要なメインの機関車である『蒸気機関車』が不調・故障を引き起こして京都は梅小路運転区に幽閉。そんな中だったので…
代打役…には『当たり』なのでしょうが、牽引機はDE10形が2台繋がれた所謂『重連運転』というヤツ。
これは本当に運が良く、このお陰で乗客は少ないわ撮影・車内観察が本当に短時間で出来た。
鉄道が好きではない人のメインとなるのは、そりゃあ…ではないにしても蒸気機関車の走る勇姿。その主役となってくる『蒸気機関車』が不在なのですから、物好きしか撮影はしないと…
あんまり多くの人が集っている様子は、今でも記憶にない。
…なもんだから、こんなガラ空きの車内の撮影だって可能。
こんなの、運転しているJR西日本にとっては完全な大打撃なのでしょうけど…
自分の中では本当に良い撮影機会で、「ここぞ!!」とばかりに鉄道ファンに注目されたこの車両の記録に励んでいたような。
USBだったかな?充電機能があるんですが、給電しつつも撮影しに右往左往だったのはやはり忘れられる事はなく。
ディーゼル機関車が先頭に立っている姿…という感じで、客車の後方からはこうして撮影も可能。
蒸気機関車の牽引ならもっと多くの乗客が集って撮影が困難になりそうなこんなアングルも、乗客の2人だけ?で占有でき、ある意味で旧型客車を投影した…と言って良いのだろうか。
レトロ・テクノロジー的な部分を観察するのは本当に面白かった。
ただし、この列車で津和野まで行く事はなく、行き違い先の地福で折り返してそのまま山口線の普通列車に乗車。今度も呆気ない感じで、レトロな客車の旅は終了。
博多駅で前日にマップを叩いても普通に座席選び放題になっていたの、もう何だか懐かしいや。
シーズンが終了したら、また毛の生えたイベント程度にでも走行を期待したいモノである。
ちなみに。
地福から先、何を思ったか旅の計画時に
「宮島線が撮りたいなぁ」
と思い、この旅では最後、広島までJRに乗車せず、宮島口で降車して広電に乗り換えてそのまま広島市内に。
そうして最後は夜行バスに乗車して、大阪に出たのだっけ。もうあんまり覚えていないや…
ACT.35〜93 北海道大旅行編
本当にこの回が1番の大長編になり、我が連載の中でも現状の半数近くを占有しているのがこの『北海道』の記事。
宿泊期間…旅の全行程的には6泊7日で、一週間近くも北海道に滞在していた。その期間、自分が携わる職に関しては職場で休暇申請の大規模な書類を記し、安全を…など行った記憶が残るが、どうだったろう。しかし、周囲が自分の
「北海道に行きたいです」
発言をし、その後の準備以降、なんとなく針小棒大に受けられた記憶だけは濃く残っている。
そんな旅路はまず、新日本海フェリーにて小樽に上陸し、旅が始まった。
しかし、この北海道・小樽上陸も一筋縄では成功していないのである。詳しくは連載を。
21時間の船旅を終えて上陸した先…函館本線を長万部まで、も勿論だが自分は北海道で済ませたい課題があった。
それが、この電気機関車の撮影である。
北海道の鉄道は711系電車の導入後、函館本線の電化を皮切りに電車の登場と時代の幕開けが訪れる。
しかし、そうした中で711系電車の基礎のような設計となった車両が存在している。
それがED75形電気機関車で唯一の北海道向け形態となった、ED75-501である。この電気機関車により、電化試験の道のりは進められていった。711系の登場前夜、この電気機関車の運転によってその土台が形成されていったのである。
しかし、令和5年の夏期。PCB解体除去の処分に触れてしまい、機関車は解体を迫られた。小樽市の宣告によって判明し、
「こんな歴史的な電気機関車の解体は絶対に見なくては!!」
と発起したのである。
小樽市総合博物館。
なんとか解体の寸前に間に合った…が、このED75-501は現在、PCBの除去処分を終えて修復し、再びこの写真のようになっているのだそうだ。なんだったのだろう、この苦労…
なお
小樽市総合博物館ではこちら、ED76も解体処分の対象となってしまった。
こちらに関しては姿そのままを残す事は叶わずとなってしまったが、運転台を車体から切り離して『前頭部保存』という形で維持を図っていくようだ。今年度中にも新たな公開方法で対面が可能だという。
小樽市を一通り観察して、北海道遠征開始。この遠征では、北海道新幹線で去就が注目される事になるであろう函館本線の山線部分に乗車。長万部からは室蘭本線に乗車し、そこから岩見沢までは宿泊がてらの長い旅になった。
室蘭本線の旅路に関しての記録。
この時は平日の真ん中であったから、通勤時間帯の特急列車などに混ざって旅をする事になった。道民の生活を体験できた、良いイベントであったように思う。
旅路でとりわけの苦労をした事…といえば、北海道の保存車で「これは見ておきたい」という保存機、D61形を見る為に留萌に向かった事だろうか。
この留萌も何気に大変だった。
もう少し早い時期にトライしていれば、留萌本線に乗車してその足で訪問が可能だったのだが、既に留萌本線の留萌〜石狩沼田が廃止となってしまい、バスでの訪問になってしまった。
このバスに関しても、乗車のタイミングなどを図るとして難しい旅路であった。
そして、この蒸気機関車、D61形。
訪問した留萌市の『見晴公園』での保存を終えて、次は道の駅に保存される事になったのである。
露天・屋外の保存が終了するのは良い話になりそうだが、保存方法なども非常に気になる。
留萌を輝かせ、そして日本鉄道史的にも貴重な蒸気機関車なので、適切に安全に管理される事を祈るばかりだ。
決して、保存車の知らせの中には良いモノ…で済まされないものもある。
写真の宗谷本線は豊富駅横の救援車・オエ61形が解体されてしまったのだ。
この話に関しては、年を跨いで令和6年中だったと思うが、衝撃的な話として舞い込んできた。
「あぁ、行っておいて良かった…」
その感覚だけが、自分の胸を伝っている。
この北海道上陸で大きかったのは、稚内の訪問である。
鉄道では最北端となる駅に降車し、宗谷岬までのバスに乗車。晴れて日本最北端の地まで到達した。
日本最北の場所…とはいえ、個人的には訪日観光客だらけの場所であり、なんとなく良い思い出が存在していない。
再び向かう時は、一体どのような時期が良いだろうか。非常に悩ませてくる。
あとは最後に。
実際は大長編なので読むとかなり時間がかかるのは御了承になるのだが、乗車できて良かったのはやはり『札幌市営地下鉄』である。
南北線のシェルター区間に関しては図鑑で何度も読んだ写真の場所。
札幌から。そして我が国の一大行事への開業決心として開通した札幌市営地下鉄威信の区間であり、この地下鉄の地上区間を乗車できたのは大きな感動であった。
そして最後に。
1〜100とすると、その大半を埋めてしまった山あり谷ありの章なので、是非ともココだけは…
ACT.94〜Now 山梨編
昨年の企画が再び復活。
センバツの対戦組み合わせで当たった場所に旅をする
の企画の一環で、京都外大西vs山梨学院の対戦カードが実現した事からの旅。この旅に関しては現在、好評?連載中。
山梨は関西方面からとして身延線から上陸し中央本線を経て山梨県は大月・都留へ。
予告なのでこの辺りまでにしておくとして…
少し予告で、写真を先行公開。
山梨県は都留市の某所の写真。
一応の記憶だと、三つ峠とかその辺りだったような?
取り敢えず、記事の記録をお待ちください!
ラスト
100回行ったし記念にぃ…と思って書いてますがやはり量。多すぎる。うん。
というか本当に色んな出来事や経験が多いっすね。生卵NGになったり、サイレントで保存車がなくなったり。
早くも1年ってこんな感じなのかぁ…とか。
山梨編が実際どれだけかかるか知る由もないんですが、次回はどうしよう。
250か300の時にでも記す?
あ、リンクです。
本編はここから宜しくお願いします。
スキしてくれたらなんか嬉しくなります。
それでは。皆さま本編でもお会いしましょう↑
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