見出し画像

萩原朔太郎:前橋文学館・萩原朔太郎記念館

詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

『月に吠える』「序」

萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう、1886年~1942年)…詩人、評論家。

前橋文学館

画像は、群馬県前橋市にある前橋文学館

萩原朔太郎像

萩原朔太郎は、群馬県前橋市の出身。開業医の長男として生まれる。1日の生まれだったので、第一日の意味を持つ、「朔日(さくじつ)」から「朔太郎」と名付けられた。群馬県師範学校附属小学校の時には、一人でハーモニカやアコーディオンなどを楽しんだという。前橋中学校(現在の前橋高等学校)の時代には短歌に熱中していく。

マンドリンとシルクハットの碑

前橋文学館の前には、萩原朔太郎像やマンドリンとシルクハットの碑もある。1911年には、マンドリンを習ったり、音楽会やオペラなどを楽しんだり、音楽にも更にのめり込んでいく。

最近では音楽で言えば、ヨルシカというアーティストが「月に吠える」という楽曲を制作している。もちろん、萩原朔太郎の『月に吠える』をモチーフにしている。こういった所から文学に入っていく人もいるかもしれない。

文学への入り口で言えば、『文豪ストレイドッグス』『文豪とアルケミスト』の方が影響力が大きいのかもしれないけれど。さまざまな形で文学が盛り上がるのは良いことである。

萩原朔太郎は、マンドリンを師匠・比留間賢八(ひるま・けんぱち、1867年~1936年)から学び、その後は継続的に演奏会なども開催している。
楽器を演奏する文学者。パッと他に思い付くのは、宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)、江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ、1894年~1965年)、逢坂剛(おうさか・ごう、1943年~)くらいか。

宮沢賢治は、音楽好きでレコードも買い集め、チェロやオルガンなどを演奏したという。音楽好きのエピソードでは、よく見かける宮沢賢治の写真。帽子を被り、長いコートを着て、田んぼの中で、後ろで手を組んで、私たちから見てやや右側前方を向いている写真。これは宮沢賢治が敬愛したベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770年~1827年)の姿を真似したものだと言われている。

江戸川乱歩は、西洋ではピアノを弾きながら小説の構想を練る作家がいると聞いて、三味線を始める。目的は、音楽ではなく、あくまでも小説をつくるためのもの。だが小説のためにはそこまで成果が上がらないが、ただただ三味線の腕前は上達していったという。
進士素丸(しんじ・すまる、1976年~)の『文豪どうかしてる逸話集』にも掲載されている話である。

逢坂剛は、17歳、18歳頃に次兄の影響でクラッシックギターを始める。その後、フラメンコギターのレコードと出合って衝撃を受ける。フラメンコギターやスペインにハマっていく。直木賞受賞作である『カディスの赤い星』もフラメンコギターがキーアイテムである。

ああ、小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)もヴァイオリンやマンドリンを演奏していたとか。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756年~1791年)についての評論『モオツァルト』も書いているし。

話を萩原朔太郎に戻そう。
萩原朔太郎は幼少期より神経質であり病弱でもあった。実家が開業医であるから裕福で、文化資本も豊富であり、学業もそれなりに出来る。紆余曲折を経て、最終的な学歴は慶應義塾大学部予科を中退ではあるが。

短歌や詩を書きつつ、音楽にも熱中。1913年に生涯の友となる室生犀星(むろう・さいせい、1889年~1962年)と出会う。第一印象はお互いに良くは無かった、いや最悪に近い、というのが笑えるけれど。その辺りは室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』などにも記載されている。
分かりやすく抜粋してしまえば、室生犀星は萩原朔太郎のことを「気障な虫酸の走る男」と身震いし、萩原朔太郎は室生犀星のことを「貧乏くさい痩せ犬」と絶望したという。

1917年に『月に吠える』を刊行して、一躍有名になるというか、確固たる地位を築いたという感じである。

1926年には東京都北区田端に移住。室生犀星をはじめ、芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892年~1927年)も近くに住んでいて交流を深める。

現在では田端駅から直ぐ近くのところに、田端文士村記念館という施設があって、定期的に企画展なども実施しているのでオススメである。

ここから先は

643字 / 7画像
この記事のみ ¥ 300

宜しければ応援お願いします! 書籍代・資料代などの活動費に使わせてもらいます!