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高校公民教育の離陸?~2025年共通テストにおける公共・倫理について~

 2025年1月18日に行われた大学入学共通テストの公共・倫理の試験内容について、思いついたことをいくつか覚え書きとして記録を残したいと思う。ざっくりといえば「応用倫理学への接近が起きている。これは高校公民教育を飛躍させる契機なのだろうか」という直感だろう。

 まずは各大問の出題された分野について確認しておきたい。

  • 第1問 男女共同参画社会

  • 第2問 公共空間の形成

  • 第3問 源流思想・芸術

  • 第4問 日本思想

  • 第5問 認知バイアス

  • 第6問 戦争と平和

 ざっとこんな構成になっている。
 問題に目を通して(実際に解いてみて)、まず私が感じたのは公共と倫理がスムーズに接続されているということだ。公共が現代社会の改良された後継として共通テストの上では機能しているということなのだろう。もし公共と倫理のどちらの内容か大問ごとに分けるとすれば、公共は第1問、倫理は第3問、第4問になるだろう。問題は第2問、第5問、第6問ということになる。
 そして、問題の大問3つは第2問、第6問を巡るものと、第5問を巡るものに分けられていく。

「公共空間」と「戦争と平和」を語る応用倫理学の試み?

 まず第2問と第6問から感じた問題を考えたい。
 これは現在の公共という科目が「公共」的なものを考える基盤として機能しうるかとうものではないだろうか。
 第2問においては、「公共空間の形成」や「公共空間の維持」といったテーマのもとに問題が作成されている。内容を見てみよう。

  • 問1 ハーバーマスにおけるコミュニケーションの議論

  • 問2 現代社会におけるコミュニケーション

  • 問3 対話の場としての哲学カフェ

  • 問4 インターネット社会のコミュニケーション

 内容からは、公共性/公共圏を巡る議論でよく上がる論点だと感じられる。その点では、21世紀に入って一時期盛んに議論されていた議論が共通テストに登場するまで、学術界では浸透していることの表れかもしれない。

 次に第6問の内容について見ていきたい。

  • 問1 非暴力主義の論者

  • 問2 フーコーと拡散された権力

  • 問3 世界市民思想と人間の安全保障

  • 問4 人間性を回収する全体主義(フランクル『夜と霧』)

  • 現実としての非暴力的闘争(シャープ『独裁体制から民主主義』)

 このような構成になっている。
 第2問と第6問の内容からは、公共(政治経済ー社会科学的なもの)と倫理(哲学ー人文学的なもの)がテストの中で絶妙に組み合わされている。
 公共空間や戦争と平和に関する哲学・思想的議論と社会科学(主に政治学)的議論が現実社会における課題対応に接続されている。私にとってはなじみのある構成だった。応用倫理学そのものだから。
 現実社会における思想的なレベルの問題解決は、当然のことだが現実社会に対する認識なしには成り立ちえない。そして思想的なレベルでの問題対応は、現実への接近がますほど応用的、つまり応用倫理学へとなってゆく。そして、応用倫理学は現実社会への実際的な認識・分析なしには成り立たない。

 そのようなことから第2問と第6問は高校公民教育における、応用倫理学”学”(学説史)から、応用倫理学”そのもの”への志向の現れなのではないだろうか。

第5問という謎

 第2問と第6問が公共と倫理が接続として機能し、さながら応用倫理学の姿に近づいてきている、となった時に私にとってはまだ一つの難しい疑問が残ることになる。第5問をどう捉えるかという問題だ。
 ひとまず第5問の内容について確認したい。

  • 問1 記憶の変容

  • 問2 認知バイアスの概要

  • 問3 哲学とクリティカル・シンキング

  • 問4 認知バイアスの対処 二重盲検法

  • 問5 異常事態と認知バイアス

 まず私の雑感を言っておきたい。なんだこれは、と(特に問3は個人的に”検討”認識からも謎問題と感じた)。どうして認知バイアスを取り上げ、文脈の探し求めにくい流れになっているのだろうか。
 最初に問題を見た時はてっきり、認識論の議論にでも導くものかと想定していた。しかし展開されたのは認知バイアスとクリティカル・シンキングについての問題だった。これらはおそらく心理学の領域が最も取り扱っている話題ではないだろうか。

 文脈がないように見えるところから、いかに文脈を捉える・繋ぎ直すかが肝心であろう。ということで、好意的に文脈を探したいと思う。
 まずは主体性懐疑なのではないだろうか。認知バイアスという我々のあいまいさから、人間を理性的存在として把握する近代的人間観への疑問なのではないだろうか。
 そしてさらには、近代的人間観から認識を新たに形成できないという問題から発せられる、新たな人間観構築へのアシストなのではないだろうか。
 私は「我々の知っている近代的人間観は現代において有効ではない。しかし新しい人間観を探る試みは未だ途上にある。」このような認識が一般的なものではないかという前提でいる。そのため、現代社会におけるポスト・トゥルース的状況に端を発する世界的な政情不安は、人間観のアップデートを解決への必須要件とすると考えている。

 このように考えると、ある気づきが起こる。
 第5章も現実社会への応用倫理学的試みの準備運動なのではないか、と。

共通テストという現れへの希望

 前段で第5問も、現代社会における重要な問題を解決するための準備運動、つまるところ応用倫理学への準備運動なのではないかと指摘した。
 公共という科目の誕生がどれほど現実的なカリキュラムの変化を起こしたかについては私は十分には知らない。しかしながら、共通テストという一つの形式において、応用倫理学への準備運動という立ち現れが目立っていることからも、公共という科目の誕生は注目に値したのだろう。私が現代社会や倫理、政治経済という学際的でない科目に分断されていた公民科教育を受けた頃に比べると目を瞠るものがある。

 仮に今後この公共という科目の立ち現れが、このまま継続され応用倫理学的な立場に接近しうるとすれば、それは社会変革の一端を担いうるのではないだろうか。
 高校における公民科教育の通過点としての共通テストにおいて、現実社会と密接に絡んだ問題を人文学・社会科学の包括的な知から解決する試みの疑似体験が生じうる。これは素晴らしいことだと思うし、1倫理学徒としてもうらやましい公民科教育体験だと思う。

 積み重なる、それどころか増え続ける現代社会を改良するークソどうでもいい社会に抵抗するー希望を、勝手に共通テスト公共・倫理に見出しながら今回は終わろうと思う。
(2024年1月19日3時44分)

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