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道徳授業地区公開講座:メロンのパスタは作れるか。

道徳授業公開講座なるものに、はじめて参加してみた。時代の要請に応じる形での、多様性理解についての授業であった。他者を思いやることの重要性と、悲しいかな必要性によって、いまや道徳は「科目」になっているというわけである。

振り返れば、私が小学生や中学生の頃、道徳の授業はどのようなものだっただろうか。正直にいえばあまり記憶にない。伝記を読んで「立派な大人になりましょう」であるとか、勧善懲悪の物語を聞かされて「善悪の判断を身に着けましょう」といったようなことを一方的に教わる時間だったという微かな記憶はある。いずれにしても、その程度の印象ということで、あまり際立った学びを得たようにも感じないし、同時にある意味シンプルな時代、だったのだと思う。

ひとつ言えることは、私たちの時代の道徳教育とはまさに善悪を考えること。つまり二者択一、白黒をつけることを教わることであった。しかし、今の時代の道徳教育とは、いわばカラフルな虹色について学び合うことである。「白黒」から「虹色」へ。「教える」から「学び合う」、へ。この違いは小さくはないだろう。

授業の題材は「トマトとメロン」、である。ずばり、相田みつをの詩をとりあげ、それぞれの個性はそれぞれに美しく尊く、競い合うことは愚かなことだ、というような内容である。こんなストレートなテーマでも、多様性理解をスピーディに求められる時代だからか、考えさせられる点は多い(私自身がこうした多様性について、それは可能性と置き換えて考えてみてはどうかと書いた内容は過去の記事をご参照願いたい)。

無論、大人にとってもこうした多様な価値観との共生共存について考えることは大切であり、社会的にももはや不可欠なことであるのだが、成長期の中学生においては、これは自身の心身の発達とリンクしているのだから、より抵抗も躊躇も違和感もなく、自らの学びとしてこれと向き合えるのではないだろうかと想像しながら、大人の私も懸命に授業を聞いていた。
道の順逆を学ぶことももちろん大切であるが、畢竟多様性不理解に直結する事柄こそが現代社会の問題の要因となっているのだから、この時代にこうした学びにふれるということは有意なことだ。

失礼ながら、私は相田みつをに食傷気味な世代である。それは相田本人のせいではもちろんないし、その好き嫌いをここで考えることは意味がない。テーマとなったのはこんな作品だ。

「トマト と メロン」                 

トマトにねえ
いくら肥料やったってさ
メロンにはならねんだなあ

トマトとね
メロンをね
いくら比べたって
しょうがねんだなあ

トマトより
メロンのほうが高級だ
なんて思っているのは
人間だけだね
それもね
欲のふかい人間だけだな

トマトもね メロンもね
当事者同士は
比べも競争もしてねんだな
トマトはトマトのいのちを
精一杯生きているだけ
メロンはメロンのいのちを
いのちいっぱいに
生きているだけ

トマトもメロンも
それぞれに 自分のいのちを
百点満点に生きているんだよ

トマトとメロンをね
二つ並べて比べたり
競争させたりしているのは
そろばん片手の人間だけ
当事者にしてみれば
いいめいわくのこと

「メロンになれ メロンになれ
カッコいいメロンになれ!!
金のいっぱいできるメロンになれ!!」
と 尻ひっぱたかれて
ノイローゼになったり
やけのやんぱちで
暴れたりしているトマトが
いっぱいいるんじゃないかなあ

われわれは前提的に、相田みつをの世界観を知っているし、彼の作風を知っている。しかし、あのときの自分と違う立場や環境で相田節を聞かされると、少し違ったことが見えてきたりする。

この作品における「百点満点に生きる」とはどういうことだろうか。私は常々、人は命いっぱい死ぬために、命いっぱい生きるのだ、と嘯いている。命いっぱい死ぬために、不自然死を選択してはいけない。生命の横溢する死を迎えるために目一杯生きる、それが人というものではないか。

しかしながらいまこの瞬間も、多様性不理解の中で心理的に、肉体的に、社会的に、象徴的に殺され、あるいは自死している人たちがいる。相田に倣うならばトマトとメロンを比較することに意味はないだろうに、情報が作り上げ肥やした「他者が作り上げた自分らしさ」という偽りの装置の桎梏と誤謬の中で虚しく、私たちは誰かの命いっぱいの死を妨げている。百点満点に生きようという生命を、妨害しようとしているのだ。多様性理解の安請け合いもまた、同じように誰かを殺めている。

個を認め、個を生きる、ということは誰かの権利侵害を教唆し幇助することではない。それなのに、甘やかされた個がわがままに誰かを傷つけるならば、これは本末転倒である。「自分らしさ」に敏感で、「他人を尊重すること」に忠実な時代の子どもたちが、絶えず揺らぐアイデンティティの中でどのように「異物」というノベルティを受容していくか。この土壌を用意するのは、もしかすると大人にも荷が重い。だからこそ“道徳のいま”は、学び合い、つまり共創であり共奏なのである。競争はもう時代遅れなのだ。それは建前という向きもあるに違いないが、共創や共奏のない競争のもとで、文明の持続は困難を極めることくらい容易に想像がつくのではないだろうか。

簡単な話、「メロンでパスタは作れるか」という話ではないだろうか。それは、既成の価値観では作れない。邪道、なのである。しかし、現実に調理することはできる。トマトをメロンに置き換えたパスタならば作れるのである。しかし、これを“あのパスタ”と同じように受け入れ、個として認知し、尊重することができるか。それが我々に課された次なるステップではないだろうか。

ところで、そうしたことを考えながら改めて相田みつをの字を眺めていると、人間味あふれるあたたかい字だと言われてきたあの字が、実は周到なひとつの仕掛けなのではないかという気になってきたのである。相田の字は、個性豊かな自分流のようでいて、実にアノニマスな字なのではないか。相田みつをが書いている、というブランドに釣られて、ヘタウマだが味があるなどと評価していると足をすくわれるかもしれない。相田ブランドを捨てて眺めてみたとき、驚くほど個性のない−たとえは物騒だが、どこか犯行予告のような−、筆跡の主張のない字なのである。いわば相田フォント、なのである。

私たちは概ね、ヨコ書きに明朝体は使わないし、タテ書きにゴシック体は使わない。しかしこれまた、そうした前提的なルールに縛られるということは、実は多様性の可能性を自ら狭めていることなのかもしれない。相田みつをが多様性理解の時代を先駆していたかどうか、作家研究的なことをここで書くことはしないが、もしあの相田フォントにそのような見方が成立するとするならば、なんという慧眼であろうか。

もっと自由に生きたいという欲望が物質的な豊かさを生む。しかし、その豊かさのゆえに、人はこうして自由のハンドルを取り損ない、あるいはそれを手放すのではないか。昨今、個を考え多様性を尊重することと、手放した自由のどちらを先に掌中にするか。この決断は急務であるが、なかなかに苛烈な試練ではないだろうか。(了)

Photo by simon,Pixabay


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