『月と六ペンス』と『闇の奥』の関係性
ロッシーです。
前回、『月と六ペンス』についての記事を書きました。
今回は、ちょっと違った角度から見てみたいと思います。
それは、『闇の奥』と『月と六ペンス』との関係性です。
『闇の奥』については、こちらに書評がありますのでご興味のある方はぜひご覧ください(長いですけど)。
モームは『闇の奥』を参考にしたのでは説
二つの小説は、ともにイギリスの小説です。
コンラッドの『闇の奥』は、1899年に発表されました。そして、モームの『月と六ペンス』はその20年後の1919年に発表されました。
ということは、おそらくモームはコンラッドの『闇の奥』を読んでいたと思います。
そして、『月と六ペンス』の執筆において、『闇の奥』の構想を参考にしたのではないかと私は思っています。
二つの小説の共通性
なぜそう思うのかというと、二つの小説には色々と共通性があるからです。
例えば、『闇の奥』のクルツと、『月と六ペンス』のストリックランドは似ています。
クルツは、コンゴ河の奥地で何かの力に憑りつかれ、象牙を収集します。
『月と六ペンス』では、ストリックランドがロンドンで何らかの力に憑りつかれ、家族を捨て、絵を描きます。
二人とも、何かの大きな力に囚われるのです。そして、象牙も絵も最終的には富に結びつくものです。
クルツもストリックランドも最終的には死んでしまいますが、死ぬ前に何か大いなる真実の深淵を覗き込むところも同じです。そして、それが一体何なのかは私達読者には分からないままです。
つまり、小説の核となる部分は大きな空洞になっており、説明はなされません。あくまでも読者は想像するしかないのです。そういう小説の構造も共通しています。
また、主役以外の登場人物も共通しています。
『闇の奥』には、マーロウという存在と、クルツを崇拝する道化役のロシア人青年がいます。
『月と六ペンス』には、「私」という存在と、ストリックランドを崇拝する道化役のストルーヴェがいます。
このあたりのキャラ配置も共通しています。
また、登場する女性の役割も似ています。
両方の小説とも、登場する女性達は、クルツやストリックランドが憑りつかれる力とは無縁です。つまり、真実とは無縁の存在です。
モームの工夫
しかし、単に共通性があるだけでは、たいした意味はありません。
『月と六ペンス』は『闇の奥』をモームなりにさらに発展させ、工夫したからこそ、今日まで人気の高い小説になったのではないでしょうか。
特に大きな工夫としては、ロンドンで働いている普通の証券マンを主人公にしたことです。
『闇の奥』では、クルツはコンゴ河奥地で何かに憑りつかれましたが、それはともすると、
「アフリカのような暗黒大陸だからそういうこともあるよね」
というふうに捉えられてしまいかねません。つまり、それはどこか遠くの出来事で、自分には関係ない、と思われてしまいかねないのてす。
しかし、モームはそれを発展させ、
「ロンドンで働いている普通のサラリーマンが突然何かに憑りつかれる」
というかたちにしたわけです。
それにより、読者は、単に遠い異国で起こった無関係な出来事ではなく、より身近な存在としてストリックランドを捉えることができるようになるわけです。
そして、その変貌ぶりも読者にとっては魅力的です。
ロンドンで、クルツのように原住民を殺害したり、生首を杭に刺したりするわけにはいきませんが、ある程度暴力的な存在に変貌するという構想も可能だったでしょう。
しかし、それでは単なる殺人鬼が生まれるだけの小説ですから面白くありません。
やはり、ストリックランドのように、「世間やモラルというものから徹底的に隔絶した存在になってしまうかたちで変貌する」ということが最大のモームの発明だったと思います。
そのような存在にある種の憧れを抱きつつも、そうはなれない平凡な人達の「変身したい」というニーズを鷲掴みにしたわけです。
ストリックランドのように、言いたいことを言い、やりたいようにやりたい、どこか遠くにふと何もかも捨てて行ってしまいたい、と思ったことは誰しもあるでしょう。
しかし、その欲求を押さえつけながら暮らさざるを得ない読者の人達には、ストリックランドという人物像は当時でもウケたでしょうし、これからもそうだと思います。
二つの小説の共通性
二つの小説の共通性を述べてきましたが、当然ながら違うところもあるわけです。その違いが、この二つの小説の印象を大きく変えていると思います。
『闇の奥』は全体的に暗い感じがしますが、『月と六ペンス』は明るい印象を受けます。
クルツとは違い、ストリックランドが向かう方向性には、クルツほどの暗さはありません。
それは、彼が目指したものが圧倒的な美の世界だったからなのかもしれません。また、南国のタヒチが最期の舞台となったことも大きいでしょう。
アフリカの秘境の中で「恐怖だ!恐怖だ!」と言って死ぬクルツに比べ、ストリックランドの死にはむしろ開放的なものすらあります。
ストリックランドが何か大いなる真実を目指し、最終的にはその真実をこの世界に表現することができたことで、読者はカタルシスを感じるのです。
また、アタという女性の存在について描かれていることが、一番大きな違いのように思います。
アタは、タヒチでストリックランドの妻として、彼に心からの愛情を抱き続ける「愛」の象徴的存在です。
彼女は、ストリックランドが病気に侵されて死ぬまで、決してそばを離れずに献身的に面倒を見て、愛情を惜しみなく注ぎ続けます。
確かにクルツも婚約者から愛されていましたが、婚約者はあくまでもロンドンにとどまり、クルツと一緒にコンゴに行ったわけではありません。そのせいか、その愛には、「物理的に決して離れたくない、一緒にいたい。」という強い力をあまり感じません。
もしもこれがアタだったら、おそらくコンゴ河奥地だろうがどこだろうが、愛する者から離れずについていったことでしょう。
アタはストリックランドの目指した真実に関心はありません。しかし、彼女のような圧倒的な愛の中では、そんな真実なんて、もはやどうでもよくなってしまいます。
愛こそすべて
圧倒的な愛の前には、真実が恐怖だろうと何であろうと関係ないのかもしれません。
アインシュタインは
「 愛こそがこの宇宙を支配する究極のエネルギーだ」
と言っています。
おそらく、モームもそう思っていたのではないでしょうか。
ストリックランドがアタを愛していたのかどうかは分かりません。でも、そんなことに見返りを求めずに愛し続けたアタ。
彼女こそが、もしかしたらモームが一番描きたかった存在なのかもしれません。
月=理想
六ペンス=現実
なのだとしたら、アタはそれらをすべて優しく包み込む太陽=愛 だったのではないでしょうか。
Thank you for reading !