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橘天敬
日本画、リトグラフ
◎橘天敬の芸術
橘天敬(たちばな てんけい、1906年11月3日生まれ、1984年6月1日没)は、日本の画家であり、特に障壁画の制作で知られています。本名は中山義文で、初期には園部香峰という雅号を使用していました。彼は横山大観に私淑し、その影響を受けて作品を制作しました。代表作には「和楽之図」(大英博物館所蔵)や「風神雷神図」などがあります。
幼少期、橘天敬は野山を駆け回る活発な少年であり、1920年に大谷小学校を卒業後、末永節や個人教授のもとで学びました。得意科目は数学で、英語は最も苦手としていました。外遊が多かったものの、生涯ほとんど英語を話さず、どの国でも身振り手振りで意思を伝え、多くの外国人の友人や知人を持っていました。
東京美術学校専科時代には、岡本一平に可愛がられ、街で一緒に似顔絵を描き、菊池寛や久米正雄らにも紹介され、銀座のカフェ「黒猫」に連れて行かれるなど、既に一世を風靡していた漫画家や小説家との出会いを重ねました。その後、野口雨情、西条八十、時雨音羽、中山晋平らも展覧会の発起人として近衛文麿と共に名を連ねており、先輩芸術家たちとの交流は青年期の彼に貴重な影響を与えました。
仏画を描くようになったきっかけは、17歳の秋に美術学校内で関東大震災に遭遇したことでした。その惨状を目の当たりにし、「南無阿弥陀仏」と繰り返し唱え、震え、祈り、仏画に専心する強い決意を持ち、山口県観念寺で修業し、初めて「如来像」を描きました。
その後、海外での個展や留学を続け、広く学びながら文化交流に努めました。戦後、園部香峰から雅号を橘天敬に改めた頃より、六曲一双屏風に障壁画の大作を次々と描くようになりました。1972年夏には、アメリカ・ワシントンのスミソニアン博物館内のフリーア美術館に六曲一双障壁画「風神雷神之図」が収蔵されました。当時、記事にしたのは毎日新聞だけで、「光琳、宗達に続く『異例の美術館入り』」との見出しで、故人の作品以外は収蔵しないという前例を破っての経緯でした。
下図が無く、岩絵具と金箔でダイナミックに描いた障壁画は、ネルソン・アトキンス美術館やロンドンの大英博物館などにも収蔵されています。展覧会に欠かさず訪れ、天敬の「心の師」でもあった安岡正篤は、天敬の画風を陶淵明の詩から「大化縦浪派」(たいかしょうろうは)と評しました。また、世界平和を願う同志として作品とその生涯を見守り、自筆の書と天敬の墨絵が一緒に描かれた掛軸も残っています。
晩年は諸々の平穏を願い得度しましたが、1982年5月に脳梗塞で倒れ、さらに胃癌が見つかり、1984年に死去しました。葬儀委員長は美術評論家の三宅正太郎が務め、戒名は小松院殿天敬義仁大居士。墓地は台東区谷中の長久院にあり、天敬が生涯「芸術の師」と仰ぎ、谷中墓地に眠る横山大観といつでも酒が酌み交わせるようにと、生前の両者を知る墓守の計らいで、対面に位置するよう建てられています。
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