ひかりのくには原点の奥
こないだ古本をパラパラめくっていると。
古本だから、前の持ち主が鉛筆で線を引いたのだろう。
「命をかける価値があることは創造者として終わるか、模倣者として終わるか以外にはない。」みたいなことが書いてある部分にラインがされていて。
前の持ち主さんが線を引くのも納得な・なかなかのインパクトをうけた。
著者さんは、東京大学ができた頃の東大生で。
この人も、大元の『無』の原点に気がついていて。
(『原点がある』という本)
『創造者として終わるか、模倣者として終わるか』
第二次世界大戦後に書かれた本の一文なのだけれど。
物書きとしての気概を表現した一文だ。
模倣者というのは。
誰かがつくったものを2次利用して終わるか。
とか。
染脳された状態で作って終わるか。
といったところだろうか?
では、創造者とは?
個人的な見解では、原点の存在に勘づいていて。
原点の奥からひっぱりだすようにして現象化させたもののことではないだろうか?
染脳されて模倣者として生きるのではなくて、『命をかけてたどりついた真理の表現を死守しつつ表現すること』を手放さない。…というような気概を感じる。
社会的同調圧力に屈して言動や行動を変える仲間を眺めて出た言葉だったのだろう。
今は、その時代に比較したら、儲けを考えなければ自由に発信できるのだから、素晴らしい世の中になったと思う。
原点で思い出したけれど。
こないだ進撃の巨人の評価を読んでみたら「〇〇の部分は〇〇のパクリだ。」的なことを書いている人がいた。
「パクリ」とは「模倣」の指摘のことだけれども。
その〇〇の部分が、『原点の奥から真理をひっぱりだして現象化している場合』はパクリではないのではないだろうか?
原点(真理)はひとつなので。
そこのところを描けば、おのずと同じものの別の表現の現れになるのはあたりまえ。。。
「真理をパクるな」☜これは、ナンセンスな指摘だ。
なんなら、自分は、「この作者は真理をどうやって表現しているんだろう?目線」で眺めているから、エヴァンゲリオンも、君たちはどう生きるかも、進撃の巨人も、『真理の点』でつながっている。
その、『真理の点』をパクりだと言うのは「自分は理解していません。」と同意語だ。
似た表現になるに決まっている部分があるからこそ、観ているこちらもクリエイターたちが眺めている同じような景色があることの予想もできたりして。。。やっと、自分の人生にも希望が湧くってもので。
原点の奥のことを考えだしたら理解できるけれど。
目の前に現象化している全ては、原点があることについて理解がいたっているか?いたっていないか?のリトマス試験紙みたいなものだから。
原点について理解していない=模倣か創造かの区別がつかない=区別がつかないからしなくていいジャッジで自分で自分をさらなる檻に監禁するようなコメントを書いてしまうという悪循環。。。
SNSやニュースにせっせと賛否のコメントを書いても世の中が、「コメントをし続ける状況の維持」の構築以上に変わらないのは。だから、明白なのだ。
分離があまりにも当たり前に馴染むほどに分離したまま片方の真理でながめてきたから。
反対側の世界を予想してイメージすることで「分離とはなにか?」意識して「分離状態を俯瞰してながめる」発想にたどりつけない。
なんなら、分離して他者批判することで優越感を満たしてしまっている。
それぞれ、個人の選択だから。
同じ次元をキープしてぐるぐる回る時にはとても有効なので良いとか悪いの問題ではないけれど。
解脱希望の魂さんは注意要だ。
優越感が増えれば増えるほど、メビウスの輪での流転の速度も速くなるので出口がどこか、みえなくなるだろう。
そうか。
ワンネスの意識になったから。
他者がいなくなることで。
全然別の作品なのに、どんどん繋がって見えてくるのは。
相違点を晒しあげることにもう関心がなく。
☝だって、「違う」が前提だから。
相違しているように見える現象化から共通項を探す面白さに移行しているんだよね。
そんな、基本・違うに決まってる現象化から、原点の奥からひっぱりだしている人を見つけるにつけ、アカシックレコードという観念にいきついているしね。
自分がいつか、アカシックレコードから、情報を引き出せるように至るためにも、『アカシックレコードから引き出しているパターンもあるに決まっている』と、予想を視野にいれて判断した方が、自分自身の進化にもつながって、地球人類の次元の上昇に貢献できるはずだ。
話はちょっと変わって。
そんな、分離化天国のこの地球も。
アカシックレコードの観念とかも普通になっていくんだろうな。
と思いながら楽しんでいるのですけど。
最近、始まったアニメで『チ。』も面白いです。
『チ。』も人類の壁をどう越えていくか?を別の角度から表現しているおすすめのアニメです。
小学生の頃、「偽善者」と呼ばれたことがあるのだけれど。
「偽善者」は模倣者なのだろう。
自分の場合はそのあと「偽悪者」側も模倣したことで、やっと、「偽善者」を卒業できた。
模倣?っていうか、模倣するまでもなく気がついたら。
気がついた段階で普通に悪いことしてたっていう😅
魂から眺めたら、模倣にあたるけど。
悪気がないが一番たちが悪いことに気がついた。
意識が偽悪者を模倣して気がついたけれど。
本当にちゃんと悪い人より無責任で。
無責任な分・悪い状態が偽悪者だったね😅
と。
そんなことにも気がつけたのも。
あっちとこっちの体験をすることで。
学んで比較して、そのどちらも選ばなかったからだ。
結局、片方の真理しか手にしていないうちは「模倣者」どまりになるのではないだろうか?
反対側の事情を、身をもって体験することで。
模倣天国の酸いも甘いも堪能しまくって。
その、片方の側面にとどまる理由には。
切実な場合もあれば。
単なる怠慢の場合もあることが理解できて。
全てにおいて『ケースバイケース』が身につくと。
おなかいっぱいになって手放せる。
すると、陰陽のバランスが完全に整って。
ゼロになることで原点の向こう側から。
本当の意味での思いやりがコレクションに加わるような?
以上。バカの壁の壊し方でした🌏✨🌈