白根夜想、夜が明ける。
私が住んでいる家の寝室は、夫が出かけたあとに二度寝をすると、別世界へと引きずり込む。
ずるずると、意識を吸い込まれると。見知らぬ夫と共に見知らぬ街の不動産屋で新しい部屋を探していた。
そして、内見もせずに、見知らぬ夫の勤務先から近いという理由だけで古い日本家屋の部屋が何部屋もつらなる物件に決めた。
見知らぬ夫と共に玄関をくぐると、玄関の前にものすごい汚い扉があり、ワクワクして開けた。そこはトイレだった。
もともと掃除をすることじたい好きだったのだけれど、掃除をする歓びにめざめてからというもの、汚い場所をみるとわくわくする体質になってしまったのだ。
きっかけは「黒い便器」だ。
義理の父が長年使って真っ黒になった便器に初対面した時には、さすがに気がひけた。けれど、それでも地道にサンポール片手にブラシでごしごしとこすって、真っ白になったその時の達成感は何とも言えない『さとり』をもたらした。
私は、汚れを愛しているのだ。
答えからはじまる式はこうだ。
『掃除が好きで、普通の掃除に慣れ・飽きている私が、綺麗になる達成感を得るには?=めちゃめちゃ汚い場所 + 汚してくれる人』が必須。
愛する汚れは私を『さとり』の境地へといざない、みちびく。
ニコニコ笑う、汚してくれる父は変化の得意な観音菩薩様なのだ。
神様の置いた黒いオセロを、ワクワクしながら、時間をかけて、工夫を凝らして、集中して。ひっくりかえせて白にできた時の達成感を味わうゲームだ。
達成感を味わうゲームのついでに『さとる』ことで冒険を愛するようになる。
そんなわけで、汚いトイレからはじまり、ひととおりの部屋をチェックする。左に8畳くらいのリビングルーム、その奥には、キッチンというよりは、台所という表現がぴったりな、昔ながらのタイルとステンレスとコンクリートの組み合わせの流し台で作られた空間。リビングの部屋から台所空間へ出る時に大きな板をまたぐのだけれど、下からものすごい量の蒸気が吹き出てくる。湯の香りをあびる。
(建物自体は温泉宿になっている?)
内見しないで決めた物件だったので、気がつかなかったのだが、台所の空間は、あいまいな境界線で壁があるようでないような?外から入ろうと思えば、人が入ってきそうだ。
その台所の空間伝いに右に行くと、日差しはとても暖かいのに、掃除がまったくされていない部屋があった。中に入って確認すると、その奥にも汚い扉があった。
ところが、汚染物への強い免疫力を持っている私でも虫は苦手という弱点があるために、その扉をどうしてもさわることができそうになかった。
「な~さん、な~さん!」
虫担の見知らぬ夫を呼ぶ。
「なに?」
見知らぬ夫は、夫なのだけれど、この次元の見知らぬ夫の中身は夫ではない。
けれど、見た目は夫のままなので、自分的には現実世界の夫とみなしてちょっとの違和感を感じつつお願いする。
「ここはちょっと、開けるの無理だから手伝ってほしいのよ。」
そういって、扉の下にはっているムカデ?ミミズ?的なものを指さし、ゴム手袋を手渡した。
慣れた手つきで虫を殺さずに外に逃がしてくれる。こうゆうところは夫と同じだ。
その扉は取っ手の部分も真っ黒くタールのようなものがこびりついていたので、見知らぬ夫にそのまま開けてもらうと、また、トイレだった。最初のトイレほどではないが汚れている。虫がいなくなればこっちのものだ。と、確認を済ませ、ふたたび部屋の全体像を把握しに、今度は最初のトイレから右側のゾーンへ。
各部屋の仕切りの扉のデザインがとても素敵だ。ところどころ、すりガラスになっていて作りが細かい。
右に進むと寝室によさそうな8畳くらいの部屋があって、その部屋の左手にはサンルームがあった。見知らぬ夫が、「このサンルームと、その奥の部屋も掃除して片付けなきゃ!」というので奥の部屋を二人でのぞいて確認して引っ越しを済ませることにした。
「・・・・・。(奥の奥が壁じゃなくて、ふすまになってるのはなぜ???)」
わいた疑問はそれ以上の思考の余地をのこさずに、にぎられたブラシと共に黒いトイレに吸い込まれた。
玄関のトイレを掃除し終わると、見知らぬ夫が他の部分の掃除を全部終わらせていた。しかも、家具の配置も私好みに完璧にしてくれている。こうゆうところは夫とは違う。
「めっちゃ、終わってるじゃん!」
見知らぬ夫は嬉しそう。すると、右奥の、壁じゃなくてふすまになっていた部屋から人の声がした。雑音交じりの大音響…。びっくりして、かけよりふすまをあけると、くりくりした目のおばあちゃんがテレビと格闘していた。
「大丈夫ですか?」
と声をかけると、
「あ~、~、~。つまみがねぇ~。」
と、音量の調節がうまくいかない様子。
「やりますよ!」
と伝えてちょうどいい所に合わせてあげると、ほっとした様子で囲いのある布団へ戻っていった。ここに住んでいるようだ。一瞬、
(賃貸って、そうゆうことだっけ?)
と冷静になりそうだったけれど、人とかかわりたい本能が壁をふすまに変えたのだろう。
「私たち、隣に引っ越してきた和田と申します。」
と伝えると、大きい目を輝かせて受け入れてくれたけれど、表情が少し曇る。
「そうですか、そうですか。あ~、でも、ちょっと迷惑かけるかもしれません。よくわからなくて、さわいでしまうことがあるので・・・。」
と申し訳なさそうに教えてくれた。
すると、見知らぬ夫がおばあちゃんの許可も得ず、部屋をあちこちと探索しだした。おばあちゃんの部屋にはなぜかプロ野球の巨人の選手の写真やら、記念グッズがたくさんあって、見知らぬ夫は狂喜乱舞しながらなぜかタメ口でおばあちゃんを質問攻めにしている。夫は生粋の阪神ファンだし、年長者にタメ口なんかは絶対に使わないのでやっぱり中身は別物だ。
「私、元介護士ですから心配せずに困ったことがあったら言ってくださいね。」
そう伝えながら、失礼極まりない素行ではしゃぎたおしている見知らぬ夫をひっぱって自分たちのテリトリーへと退散した。
「だめだよ!初対面であんなふうに、タメ口で話したら!」
と小さい声で伝えても、夫の顔をした見知らぬ夫は無表情のまま響いていない様子。
まるで、昔からここに住んでいたかのような居心地のよさを感じながら。どちらが現実なのかあいまいな境界線のノスタルジーを感じた。そして、こっちも消えるけど、あっちも消えるんだ。と、つかみどころのないもっと奥にある原点?ともいえるような別の場所を起点にして夢想も現実も一度に眺めて寂しくなった。
新居なのに、馴染んでる。不思議な感覚のまま眠りについた。
朝をむかえると、見知らぬ夫は朝食を食べていた。
顔を洗いに行こうと、台所の空間に行くと知らない女の子が立っている。
「あれ?」
昨日までは台所として成立していた空間の境界線である壁が完全になくなって、人が出入りできるようになっている。
(ああ、そうか、ここは建物自体は温泉宿だったな。)
きっと、あの子は大家さんの子供さんなのだろう。と納得した。
歯を磨いて、顔を洗い、昨日より激しく温泉の蒸気が湧きだす板をまたいで部屋へともどると、時計の針は9時近くなっていた。見知らぬ夫はまだ朝ご飯を食べていた。
「な~さん、まだ、ご飯食べてたの?会社遅刻しない?」
と伝えると
「今日は会社休みだよ?」
と言う。
「え?今日、金曜日でしょう?まだ、一日ある。」
と伝えると
「そっか。」
と言って慌てる様子もなく出ていった。夫とは全く違う。似ていたのは最初だけじゃないか。
そうして、玄関から夫が出ていくと、入れ違いで大家さんが入ってきた。
「はじめまして、今度、こちらにすまわせていただくことになった和田ともうします。」
大家さんは、挨拶もそこそこに、貸した部屋の様子をチェックするために、最初にトイレをのぞいた。
(賃貸って、そうゆうことだっけ?)
と、また意識が戻りそうだったけれど、トイレがキレイになっているのを確認した大家さんが間髪入れずに話しかけてきた。
「白根屋荘へようこそ。」
白根夜想?ノクターンですか?二度寝の世界で夜は明けているけれど。
「今から、歓迎会をやりますから。」
大家さんがそう告げると、部屋の壁は境界を維持することができなくなり、ひとつの大広間になった。大広間に、大きいテーブルと、大皿料理がつぎつぎと運ばれてくる。
「うちは、下で温泉宿を営んでますから。みんな、一緒に生活してるので顔合わせです。」
と、従業員のみなさんと、家族のみなさんを呼んでくださった。
「おばあちゃんは、隣の部屋に住んでるのでどうぞ、よろしくね。」
と言われたけれど、この人たちは、急に引っ越してきた自分たちと生活を一緒にしていくことに対して、警戒心をもたないのだろうか?と急に心配になった。
ただ、『自分の家』を求めて引っ越しをしたのに、引っ越しした先が『みんなの家』だったので受け入れられなかったら、安住の地が無くなってしまうわけで。不安に駆られた。すると、そんな私の心の声が聞こえたのか大家さんは、
「では、今から、皆さんの前でごあいさつよろしくお願いします。」
と言い、背中を押した。あいさつをする前におじぎをする。けっこう、お年寄りが多い。
「みなさん、はじめまして和田と申します。今は夫の仕事をささえる事務の仕事をしていますが、前職は介護職でした。何かお役にたてることもあるかと思いますのでどうぞ、よろしくお願い致します。」
と伝えると、笑顔と拍手でむかえられはしたが、お互いに挨拶だけでは警戒心は消えなかった。少し寂しく思っていると。
「俺は、知ってるよ!」
と、車いすに乗ったおじいちゃんが声をあげた。
「この人は、大丈夫だよ!」
と言ってくれたその人は、知っている顔だった。でも、名前が出てこなかった。下半身まひで私の勤めている介護施設に入所していたおじいちゃんだった。
車いすさばきがみごとで、自分の動きに馴染むようにタイヤからパーツの角度から徹底的にこだわった車いすで、安全に暴走する配慮をしながら生活していた、あのおじいちゃんだった。
「お前、俺の名前忘れただろう?名前覚えているか?」
ふいに言われて、本当に忘れていることを隠せなくなった。
「・・・田中さん?」
「ちがうわい!!!がっはっは!」
と豪快な笑いと共に受け入れてくれると、周りの人も自分の警戒心も一瞬でなくなって、
(ああ、今日からここでがんばれる…)
と思ったら、目が覚めた。と、同時に
「タミヤさんだ!」
と名前を思い出した。
現実の世界に戻ってきた。
動くのに動かさない両足を笑われた気分。
自分の現実へ背中を押された。
夜想曲の調べはあけ、光の世界に。
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