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ここニッポンで、なぜ「ひろしま」は葬り去られ、2023年の世界はすでに臨戦態勢なのか ~ 広島市民8万人が参加した映画「ひろしま」& カイヨワ「戦争論」

2019年8月にNHK総合で放映された映画「ひろしま」を初めて見て、強い衝撃を受けました。その後も再放送されてきましたが、NHKサイトではこの映画について、次のように解説されています:

原爆の恐怖と惨状を伝えようと、被爆から8年後の1953年に製作された反戦ドラマ。岡田英次、月丘夢路、山田五十鈴のほか、8万人を超える広島市民が撮影に参加、原爆投下直後の市内の惨状、市民たちが傷つき苦しむ姿を、実際の映像も交えて迫真のリアリズムで再現し、ベルリン映画祭長編映画賞を受賞、海外でも高く評価された。

このような映画が原爆投下後8年して作られていた、という驚き、実際の被爆者や小中高生も含めた広島市民8万人が撮影に参加していたという特異な凄み、脚本に込められた痛切なメッセージにも深く心動かされました。

ところが・・・

映画「ひろしま」が半ば葬られてしまった理由

全国上映してもっと話題にされ、戦後の日本映画史にも残すべきであっただろうこの映画「ひろしま」は、完成していたのになぜか上映の機会を奪われてしまいます。

一体、なにがあったのか?

この点に関しては、映画と同時期に放映されていたNHK・ETVのドキュメント番組「忘れられたひろしま~8万8千人が演じたあの日」で、その理由が語られていました。

戦後の世界情勢は「冷たい戦争」時代であり、日本を反共産主義の砦にしようとしていた占領国アメリカにとって共産主義的な活動は取締りの対象となり、アメリカの意向を第一に考える風潮が敗戦国日本には蔓延していたのです。
そのような背景の中、映画配給会社の松竹は、全国の映画館で上映するに当たり、反米色の強い次のような3つのシーンのカットを要求します:

・爆弾投下をした米軍飛行士の告白「憎き日本人に憐れみなど感じない・・」がラジオから流れるシーン
・「何十万もの非武装の罪無き日本人たちをアメリカは新兵器のモルモット実験にしたんだ」と生徒が語るシーン
・戦争孤児たちが掘り出した被爆者の骨を土産物としてアメリカ人に売ろうと画策するシーン

しかし、映画の製作側である当時の日教組(日本教職員組合)がこの要求を拒否したことで、全国上映ができなくなります。その後、細々と自主上映会が開かれていましたが、戦後の高度経済成長に追い払われるようにいつのまにか忘れられてしまいます。

そして、2023年現在は・・

当時の関係者や次世代の努力により、国内および海外でもこの「ひろしま」の存在意義と価値が再評価され、上映の動きが国内外で推し進められています。

それは、日本人が黄色人種だったから

私は、この「ひろしま」の中で語られた「日本人が原爆のモルモット実験になった」という台詞に強く心揺さぶられました。この台詞は、被爆した女子高生を見舞いに来た同級生たちのひとりが、あるドイツ人青年の手記を朗読するというシーンで披露されますが、このシーンにはもう少し続きがあります・・

その手記でドイツ人はさらにこう告白します:

「ドイツの知識人たちは、ヒロシマとナガサキに原爆を落とせたのは、日本人が黄色人種だったからに他ならないと考えています。僕は自分が白色人種だからこそ、この問題が、本能的に直感的にわかるのです・・」

そういえば、当時の日本と同じ立場であったナチスドイツ国内の主要都市も、連合軍爆撃機による度々の大空襲にさらされていました。
しかし、原爆投下までには至らなかったのは、彼らドイツ人も白色人種であり、地続きのヨーロッパ大陸に放射能汚染を広げるわけにはいかない、という当然の配慮がなされたのではないでしょうか。
黄色人種に分類される私としては、仮にそう思われていたのなら、そうだったのだろうと、諦めるしかありません。

結局、人間というものは、国籍や民族、信条や思想、所有と支配などの概念に基づいてこの世界を生きようとすると必ず、大きな壁に突き当たるもののようです、「対立と排斥」という壁です。

この「対立と排斥」という障壁の最悪の表れが、「戦争」ということになるでしょう。

そこで次に紹介したいのが、奇しくも同じ8月に放映されていたNHK教育「100分de名著 ロジェ・カイヨワ 戦争論」での哲学者・西谷修氏の解説です。

人間にとって戦争とは何か?

テキスト内容を詳細に紹介することは難しいので、気になった部分のみを箇条書きしてみます:

まず、戦争の定義は;
人間集団同士の破壊のための組織的企てが戦争である

次に、戦争形態の変遷は次のように分類される:

1 原始的戦争
(身分差のない部族間抗争)  
2 帝国戦争
(異質な文化・文明を背景にした征服のための戦い)
3 貴族戦争
(封建社会による貴族階級同士の戦争) 
4 国民戦争
(国家同士の武力衝突)

近代以降の「国民戦争」では、社会の平等化が進み、万人が平等に武器を持つようになり、貴族階級の戦争にはあった儀礼や名誉などの節度と抑制が無くなり、無制限な破壊と殺戮が起こってしまう。
社会は民主的になり、より人間的になったにもかかわらず、国家が敵国を打ち負かすために人的・物的資源を大量に投入することで、戦争そのものは非人間的になっていく矛盾が生じる。
やがて、機関銃や戦車など大量破壊兵器が開発されることによって、「多数の敵を倒して英雄」「国家のために名誉ある死」までも望む「全体戦争」へと変貌してゆく。

以上が、カイヨワの理論の骨子です。

次に、この理論を受けて、解説者の西谷氏が、近代日本の分析を行います;


ニッポンではいつから「戦争」が始まったか?

ヨーロッパの場合、近代社会が軍隊のある国民国家として組織されていったのは、平民たちが銃を持ち軍隊となることで貴族専制による身分社会を崩壊させたからだ。欧米社会における民主化とは、平民の武装化に支えられていたのである。

注意点:「欧米社会の民主化は、平民の武装化に支えられていた」という指摘は、次に述べる日本との決定的な違いとしてきわめて重要と思います。

一方、ニッポンは、「刀狩り」の社会が長く続き、平民は武器所持禁止であった。 ニッポンの近代化は、 武士の武力闘争であった明治維新によって起こったのであり、西洋と違って、武器も軍隊も民主主義には結びついていない。幕末まで、日本国内の戦いはすべて、「戦」・「乱」・「役」・「変」で表記されていた。 明治になって初めて「戦争」という言葉が使われたのは「日清戦争」や「日露戦争」であり、これらは、日本が軍隊を備えた西洋型の近代国家となって初めて行った対外戦争であった。

注意点:「ニッポンの近代化は、武士の武力闘争によって起こったのであり、武器も軍隊も民主主義には結びついていない」という指摘はきわめて重要と思います。

その他、テキストでは様々な角度からの分析がなされていますが、最終章の21世紀現在の状況論で、西谷氏による、現代の問題点の指摘部分を以下に要約します。

21世紀現在の「戦争論」~ 戦争の民営化

現在、法人格を持つ企業や資本を抱えるファンド(財団)が国家の経済政策に大きな影響力を持ち、 国家の権力や軍事力を活用して経済市場のさらなる拡張が行われている。
国家のために働く軍隊が「徴兵」ではなく「雇用」となると、軍事行動そのものもアウトソーシング(外部委託)されるようになり、「戦争の民営化」という事態が生じている。
「戦争の民営化」の問題点は、発注するのは国家だが、委託を受けた民間の軍事関連企業(たとえば傭兵)が実際にどんな仕事をするのか、国際法規に反する非人道的な行為をした としても、国家は口を挟まず責任も負わなくなることである。

世界は今、平和ではない ~臨戦態勢

2001年9月11日アメリカの同時多発テロ以降、世界は「テロとの戦争」に突入しており、常に臨戦態勢なのである。
敵対国や反乱集団というわかりやすさが無くなり、誰が敵なのか判別しにくいので、国内外で常に人々は監視され続け、一度「テロリスト」と見なされたなら、「人として生きる権利=人権」はすぐに踏み潰されて、対テロ部隊に即拘束または攻撃排除されてもかまわないという風潮になりつつある。



最後に

2023年現在
、第3次世界大戦の前兆かと危惧されている大国ロシアによるウクライナ侵攻。ワグネルに代表される民間傭兵組織の暗躍ならぬ率先した露出ぶり、ドローン攻撃などの最新兵器の試し撃ちゾーンになっているウクライナ国土、互いに非難と正当化の応酬を繰り広げるネット情報操作、・・・

このような現状の中で、私たちにできることはあるのか、戦争を避けることはできるのか、人間一人ひとりの人権を守ることができるのか、・・等々、解決の糸口がつかめない難題が降りかかってきています。このテキスト最後にも、著者の西谷氏によって、じゃ、どうすればいいんだ、まずはこういうことから始めるしかないのではないか、と、小さな指針が示されています。

私自身は、このような難題に対処できるような行動指針やアイデアは全くありません。有事には無力の一般市民にすぎません。
時の流れに身を任せ、弾に当たらないように逃げ隠れするだけでしょう。ただ、日常生活を送る個人として人間として、これだけはやってはいけない、と強く心がけるしかありません。

たとえば、明らかに何の罪もない人々への暴力や殺傷行為は、自分のため、家族のため、会社のため、お国のため、・・など、いかなる理由があろうともやってはいけない、と己を律しておきたいです。

・・となると、明らかに罪あり、と判断したら殺傷行為もいとわないことになるのでしょうか?

美しき善意や気高き正義が、呪いの魔術にかかったように豹変して、悪の欺瞞と殺戮の快感に溺れてゆくのは、昔よりこの人類によくある話ですから。