ボタニカル哲学(後集83)悟りの心と迷いの心
本性が澄みきっていれば、たとえ飲まず喰わずの状態にあっても、心身を安心な状態に保てていないということは無い。一方、本性が暗く迷っていれば、たとえ禅について語り、禅心のあるべき姿を示す偈頌(げじゅ)を読み味わおうとも、それは心の無駄使いということになっている。
つまり、悟りの境地にいたる禅道は、心と生活実践であり、頭(知識)と趣味(形式)ではないということ。
言換えれば、達人は禅の修業により、禅の文化的な形式ではなく、実態的生活を体現して悟りの境地を得るのですよということ。
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