「かける」と「かける」(かける、かかる・03)
かけるとかける
かけるとかける。
「かける」と「かける」。
上のフレーズは「AするとAする」と読めば、「Aすると(その結果)Aする(ことになる)」とも、「「Aすること」と「Aすること」」とも読めます。
いずれにせよ、前者と後者は別物でなければなりません。
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かける、掛ける、懸ける、架ける、賭ける、欠ける、駆ける、翔る、駈ける、掻ける、書ける、描ける、画ける
「かける」が、「かける、掛ける、懸ける、架ける、賭ける、欠ける、駆ける、翔る、駈ける、掻ける、書ける、描ける、画ける」と、「書ける」のであれば、「かける」は多義語であり、さらに同音異義語が複数あるという理屈になります。
私は掛詞が好きです。
たとえば、駄洒落とオヤジギャグは掛詞の別称であり蔑称でもあります、という感じに好きなのです。このネタをこれまでに何度つかったことか。
掛詞をして文を書く場合には、多義語か同音異義語かは区別しません。音が同じであったり似ていれば、さっそくつかいます。
ようするに節操がないのです。
かけるとかける*
かけるとかける。
「かける」と「かける」。
掛けると書ける。
「掛ける」と「書ける」。
これは「掛詞をつかうと文が書ける」という意味にもなりえます。
たとえば、橋をかけるには、何かの端っこと、それとは別の何かの端っこが必要ですから、「端と端のあいだに橋を架ける」と掛けると書ける、というわけです。
かけるとかける**
かけるとかける。
「かける」と「かける」。
欠けると書ける。
「欠ける」と「書ける」。
欠けると書ける、というのは本当です。欠けていると書けている、とも言えます。「欠けているから(その結果として)書けている」という意味です。
いまは真面目な話をしています。例を挙げます。いま頭にあるのは古井由吉の作品です。
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古井由吉の『水』という短編では、「私が省かれている」、つまり「ない」、あるいは「欠けている」という書き方がなされています。
「ない」状態を引きずりながら作品が成立しているのです。
欠けているから書けている。
欠けていると書ける。
欠けると書ける。
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おなじく古井由吉作の『杳子』は、杳子をタイトルにし、杳子という文字で始まる小説であり、あれほど杳子という名前が何度も出てくるにもかかわらず、視点的な人物である「彼」の名前(イニシャル)が「ない」ままに、かなり長く引きずられる形で作品が成立しています。
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それだけではないのです。
古井由吉の作品では、小説の冒頭やその近くに失調があって作品が書かれていきます。この「失調」は、たとえば『杳子』でも何度かもちいられている言葉なのですが、古井は「失調」に意識的な書き手だと推測できます。
失調とは、たとえば次のような形を取ります。
発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅。
こうした「欠ける」「失う」「無くなる」「足りない」「少ない」「ない」という出来事や事件があり、それが切っ掛けになって、狂いが生じます。
古井由吉の小説では、その狂い(失調)を引きずりながら、作品が進行し展開していくのです。
上で「旅」がありますが、旅とは日常が失われ、それが継続していく時空と言えます。
太古や大昔や昔は(大ざっぱな言い方でごめんなさい)、旅や移動は命がけの行動であったことを考えると分かりやすいと思います。旅には登山や山歩きもふくまれます。古井の小説でよく出てくる設定です。
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欠けているから書けている。
欠けていると書ける。
欠けると書ける。
以上の古井の作品に見られる身振りを蓮實重彥的な言い回しで言うと、こうなります。
「ない」であって、「ない」でない。
「ない」であって、「ある」である。
欠けていて、欠けていない。
言葉が欠けていながら、言葉が書けている。
何かが欠けていながら、作品が書けている。
「ない」のに、「ない」ではなくなってしまう。
「ない」のに、「ある」になってしまう。
欠けているのに、書けてしまう。
ところで、蓮實重彥は言葉を掛けるのが好きではないようです。
言葉を掛ける芸よりも、言葉による宙吊り芸の達人であり、そしてなによりも言葉の振付師だとにらんでおります。
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上の引用文での「反復」という言葉のつかわれ方を見ていると、蓮實重彥が言葉の表面の類似ーーこの類似が引用文の「類似」とは似ても似つかぬものであるのは言うまでもありません(おそらくここには決定的な差異と差違があるのでしょう)――、および言葉を掛ける行為に関心を示さないのが分かるような気がします。その思いは、以下の引用文を見ると確信に近いものになるのです。
こんなふうにして「掛ける」文章を「書ける」のは、蓮實しかいない気がします。
「欠く」が「書く」であるというパラドクシカルなマジック
どうして、こんなことが起きてしまうのでしょうか?
言葉だからです。作家が、書き手が相手にするのは言葉であり文字だからです。
書き手が相手にしているのは、比喩的にも現実にも点と線でしかない文字だからと言えます。現実にある「何か」ではないのです。
現実にある「何か」はいじれません。人の思いどおりになりません。ところが、言葉と文字はいじれます。
あっさりと言いましたが、これは驚くべきことです。
たとえば、現実において山を動かすのは困難であり不可能に近いですが、言葉の世界では容易に山を動かせます。
山を動かそう。
私は山を動かした。
愚公山を移す。
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言葉と文字はいじることができる――これが、「ない」を「ある」に転じるレトリカルなトリックであり、「欠く」が「書く」であるというパラドクシカルなマジックでもあり、「欠けている」が「書けている」でもあるというデリュージョナルなイリュージョンなのかもしれません。
私には、このトリックとマジックとイリュージョンこそが、文字を手にした人類にとってのリアルなのでありリアリティだという気がしてなりません。
このアプシュルドでシュールきわまるレアリスム、というか超々スーパーなリアリズムが、ファンタスティックなファントムとして人類に取り憑いているのではないでしょうか?
だから、かけるとかけるのです。
掛けると書ける、欠けると書ける、懸けると書ける、賭けると書ける、書けると書ける。
愚公山を移す。
不条理な夢
それでも、書けないとすれば、それは文字を書くのではなく、たとえば小説というもの、詩というもの、文学というもの、作品というもの、ベストセラーというもの、名作というものを書こうとするからでしょう。
いま挙げた「○○というもの」ですが、これこそが文字に欠けているものにほかなりません。
そうした抽象(絵に描いた餅)は、具体的な物である文字のあずかり知らない夢、つまり人の夢と欲望であるという意味です。
たとえば、人は山という文字を動かすことができますが、山というものを動かすことができないのを忘れてしまうと言えば分かりやすいかもしれません。
山という文字(言葉)をつかっていると、山という文字(言葉)が文字(言葉)であることを忘れるのです。その意味では、これもパラドックスなのかもしれません。
山という文字と山というものを混同する(同一視する)ことで成立する、文字という自由、文字という不自由――。
文字に文字以上のもの、文字以外のもの、つまり文字とは別のものを求める――言葉と言葉とは別のものを同一視する(混同する)――のは、いかにも不条理な夢だと言えそうです。
言葉と文字は容易にいじれても現実や思いは、まずいじれないのです。
いじっているのに、いじっていない。
動かしているのに、動かしていない。
夢と似ていませんか? ほら、夢の中では、どんなに駆けても駆けても駆けていないではないですか。書けても書けても書けていない……。
文字を書くことは(言葉をつかうことは)、隔靴掻痒の遠隔操作。掻いても掻いても掻いていない。
自由でいるはずが、不自由である。
山という文字(言葉)をつかっていると、山という文字(言葉)が文字(言葉)であることを忘れる。
忘れないつもりが、忘れてしまう。
忘れない振りを装いながら、忘れる振りを演じてしまう。
話はがらりと変りますけど。
意識的であるつもりが、無意識であってしまう。
自覚的な振りを装いながら、無自覚を演じてしまう。
人間のつもりでいながら、……。
ホモ・サピエンスの振りを装いながら、……。
こうなるのは、別に不思議でも何でもないのです。当たり前なんです。
人間もホモ・サピエンスも、言葉なのですから。名前、名称、レッテルなのです。
愚公山を移す。
大山鳴動して鼠一匹。
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