ふゆこ

こう見えても元被虐待児童です。結婚して居場所が出来たと思ったら夫はモラハラ。生きるの結構大変だったけど、今は幸せ。この経験が誰かの役に立てたら嬉しい。

ふゆこ

こう見えても元被虐待児童です。結婚して居場所が出来たと思ったら夫はモラハラ。生きるの結構大変だったけど、今は幸せ。この経験が誰かの役に立てたら嬉しい。

最近の記事

母との2回目の対面は相変わらず無意識だった

こうして母との久しぶりの対面は 無意識のうちに終わった 祖父はその2人の正体について何も語らず 私も問うことはなかった 不定期に届く荷物は 相変わらず 「親戚のおばさん」 からのものであり 私は祖父と2人の 静かでほとんど会話のない生活を 粛々と続けていた 次に母に会ったのは 中学校の修学旅行の時だった 京都奈良に行ったのだが 初日の夕食後 夜の男子の部屋に行く予定に 友達と盛り上がっていた時 担任の男の先生が私を呼びに来た もうバレたのか まだ何もしてないのに と

    • 母のこと

      父母が離婚するまでの 母の記憶は全くない と言うよりは 3歳から前の記録がすっぽりない 1番古い記憶はおそらく4歳頃 祖父母の家の庭で 隣の家のお兄さんが折り紙のチューリップを折って くれたことだ 継母と父が再婚したのは多分4歳の時 継母が継母だと言う自覚は最初からあった なぜなら どうして自分は父の結婚式に行けないのか と 散々泣いた記憶があるからだ 家には実母の面影を残すものは一切なかった 写真も 赤ん坊の私が1人で写っているものか 父あるいは祖父母と写って

      • 父について

        実の父は かなり変わった人だ どう変わっているかと言うと… 通常の会話が成り立たない と言うと 語弊があるが こちらの意図とは全く違う方向から 返事が返って来る人 である 物の見方?がちょいと常人とは違う 有名国立大学を出て 国の研究機関にいた人で 海外での勤務経験も長い それなりに社会生活はできてはいるし 愛情も思いやりもある人だとは思う しかしちょっと普通の人とは感性が違うのだ 大好きな叔母もその父について 決して悪い人ではない むしろ良い人だとは思う でもい

        • 自分と周囲を客観視出来る事が解放への入り口だった

          信頼できる人が1人でもいれば 人は何とか生きていける 幸いなことに、私には祖父母の他にも信頼できる大人が存在した その中で特に大きかったのが叔母の存在だった 血のつながりはない 父の弟の奥さんだった その人はなんというか、常に感情がフラットな人だった いつも優しく微笑んでいるが 人に媚びるようなところはない むしろ他者に対しいつも冷静な眼差しを向け よくも悪くも公平に世の中を見ている そんな印象のある叔母だった この叔母がとにかく私の話をよく聞いてくれた おそ

          虐待に耐え死なないで済んだ理由その3

          ダントツで救いは本だった 幼い頃から本を読むのは好きだった 特に好きなのはファンタジー小説 童話や昔話 冒険小説 推理物やミステリー 現実から離れているほど心惹かれた 継母に小突き回されてあちこち痛くても 胃が痛むほどお腹が空いても 学校でいじめられて傷ついても 本を読んでいる間は全てを忘れる事が出来た 幸い家の本棚には本が沢山あった 児童書も 父が定期的に買って来てくれた 特に好きだったのは 小公女や秘密の花園や足長おじさん 赤毛のアンなど 不幸な生い立ちの少女が

          虐待に耐え死なないで済んだ理由その3

          虐待に耐え死なないで済んだ理由、その2

          なんだかんだ言って1番ひどい虐待の日々は、10歳の誕生日に終わりを告げた なぜなら、10歳になった途端に 父が突然祖父母の家に私を預けたのだ 大人になってから知ったその理由はとても意外なものだった それについてはまた後日述べることにする 少なくとも虐待する継母から遠ざける為に私を祖父母のところに預けたのではない なぜなら 実父は私が継母から虐待をされていることに気がついてはいなかったと思うから こうして私は長年の飢えと虐げられる苦しみからは解放されることとなった

          虐待に耐え死なないで済んだ理由、その2

          虐待に耐え死なないで済んだ理由その1

          継母からの虐待が辛くて 学校ではいじめられて そんな毎日にどうにか耐えられたのは 祖母の存在が大きかったと思う 記憶が定かではないが おそらくは3歳の頃の数ヶ月は 祖父母と暮らしていた 祖父母はそれはそれは優しくて 特に祖母の事は大好きだった 継母と実父と暮らすようになってからも 夏休みや冬休みなどは 始まってから終わるまで ずっと祖父母の家に預けられていた その頃の私に取って その期間だけがやっと普通に呼吸が出来て 飢えないで過ごせる天国のような日々だった 継母には毎日

          虐待に耐え死なないで済んだ理由その1

          敵は継母だけではなかったがスーパー先生に助けられた過去

          小学校二年生ぐらいから 学校でいじめられていた 今から思えば 明らかに色々と欠けている子供だっただろうし いつもいつも死にたいと思っていたから 普段から暗いオーラが出ていたんだろう そして 誰に何をされても 言い返したり逆らったり 積極的には出来なかった それは 虐待されていたからなのか 生来のキャラクターだったのか 今となってはわからない 家では虐待 学校ではいじめ …良く生きてたなぁ私 一番酷かったのは 小学校二年生の二月期から 靴を隠される 画鋲が靴に入っている

          敵は継母だけではなかったがスーパー先生に助けられた過去

          誰からのどんな虐待だったのか

          虐待って言っても色々なパターンがあると思う 私の場合は継母 多分だけど、4歳ぐらいから10歳までの6年間だったんじゃないかな? どんなだったかと言えば 殴ると言うよりは叩く、こづく、つねる たまに蹴る たまにげんこつを頭にガツン! 後は言葉の虐待 ばか、ばーかとずっと言われ続けた それがどれぐらい頻繁だったかと言うと 6歳離れた弟が1番最初に話した言葉が バカと言う言葉だった それに父親が驚いていた時、正直ざまぁみろと思った あっ正確に言うと その父親の驚いている

          誰からのどんな虐待だったのか

          自己紹介 元被虐待児童が幸せになる方法

          そろそろ還暦。自分がひどい目に遭ってたときには虐待っていう言葉すら知らなかった。その時の経験のおかげで生きづらくなっていたってことも、かなり大人になるまでわからなかった。更に優しい人と信じて結婚した夫はモラハラの昭和の遺品。そんな中、自分なりに一生懸命格闘しながら生きてきたつもり。おかげさまで今は幸せだし、そんな成育歴だなんて多分誰もわからない。この経験が誰かの役に立ちますように。

          自己紹介 元被虐待児童が幸せになる方法