HSP自己テスト ㉒ 「実力を発揮できなくなる」
みなさん、こんばんは。綺羅です。
今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。
先月から今月初めにかけては、自分の発信スタイルにとても悩みました。
フォロワーさんをありきの記事を書いていくのか、自分全開な記事を書くのか、とても悩んだのです。
ですが、コメントでのやりとりで「私を見てみたい」と言ってくださったことで、大分吹っ切れました。
私全開の、私色しかないnoteを展開していきます!
いよいよラスト2項目になった、
エレイン・アーロン博士著「ささいなことにもすぐ『動揺』してしまうあなたへ。」のチェック項目を基準にした、実体験について
の日です。
私が知ってほしいのは、定義とされている様態や状態だけではなく、一人ひとりでも全然違って状態が出て来ることです。
性に関する身体のつらさでも、「我慢できる人」「我慢させて欲しい人」「我慢できない人」「我慢したくない人」様々にいらっしゃいます。
「HSP」や「生きづらさ」に関しても、そのつらさをどう向き合うかは人それぞれで、他人が「ある状態」を強制する権利はないと思っています。
自分の立場で、どう生きていくかを考え、実践していくのかが、大切なのではないかと思うのです。
では、本日も参ります。
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はじめに
最初にお断りさせていただきます。
この記事に書く、敏感さ、思考・考え方、感じる事は、すべて、一個人の感覚、体験や価値観、考え方に基づいています。
なので「ある人間の敏感さ」について「参考」として、ご覧ください。
また、各項目によって、「感じ方や刺激の察知度合いは、人それぞれ」という前提で、話を進めていきますので、
「こういう状態でないと、この項目には当てはまらないんじゃないか?」
「ちょっと気になるくらいなのに、この項目に当てはまると言っていいのか?」
「自分に、特定のレッテルを貼るみたいで、嫌だ。」
と、感じられる方や、持論を変えたくない方もいらっしゃるかと思います。
ですが、ここでの主張は変えませんので、閲覧の際は、「ご自身の判断」において、よろしくお願いいたします。
ある人が「悩んでいる、困っている」と感じている「敏感さ」が、テスト「項目」に、あてはまるか、あてはまらないかを、判断するための記事ではありません。
「判断基準」として「HSP自己テスト」をお知りになりたい場合は、申し訳ないですが、他のクリエイター様でお探しください。
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仕事をする時、競争させられたり、観察されていると、緊張し、いつもの実力を発揮できなくなる
生きていると、必ずと言っていいほど「競争させられる場面」「観察される場面」が出てきます。
それは、日常の生活圏でも、普通のこととして、形を変えて存在し、潜んでいる場面が多くありますね。
・学生さんでいえば「成績順位」
・社会人でいえば「売り上げ成績や、部署ごとの成績」
・スポーツでいえば「勝負」
・販売でいえば「価格競争」
・企業でいえば「顧客獲得」
・育児でいえば「こども園、保育園、幼稚園の入園選考」
etc・・・
思いつくまま挙げてみましたが、実際はもっと多くの頻度で、どこかで「競争」が起きていることと思います。
今挙げた例は「目で見える結果」として提示されますが、そこには「いかにしてこのような結果になったのか」という、「講評」や「評価」が付されることからも、「観察される」という観点が加えられると考えます。
HSP気質を持つ人は、競争させられ、観察されつつ、何かに打ち込むことは、出来にくいと言われています。
それは「自分と他者との境界線が薄い」という気質を持っていて、現在の一般では「競争」も「観察」も、必ず「他者」という存在がついて回ります。
言葉では「自分自身と戦え!」と言われることが多いですが、実態としては、ほぼ無意識にうちに「他者」との比較がなされています。
「他者」という、自分とは「別の人間」が認知されると、HSP気質を持つ人は、「いつもの実力」どころではなくなります。
他者の言動の、一つひとつ気になってしまう、例えば
・今、自分の方をちらりと見たけれど、何か失礼なことをしてしまったんだろうか?
・ため息は、私のとなりが嫌だと思っているのではないか?
・私は、あんなに早く書いていくことができないのに、あのスピードでできないといけないのだろうか?
・たまに通りすがりに、上司がじっと見てくるのは、私が何か間違ったことをやらかしているのではないだろうか?!
・○○さんと競争させられるのは、そもそも私の「ここがダメだから、お前は伸びないんだ!」とか、後で言われるのだろうか?!
といった、
直接「学習する」や「業務に従事する」、「記録を更新する」等の行為そのものには、全く関係のない出来事が、HSPの人の作業量に、大きく影響することがあります。
他人と比較されることによって、その影響はほとんど場合、
「いつもの実力が発揮できなかった」
「実力を発揮するどころか、人の作業光景が気になって、集中出来なかった」
「観察される・見回られることによって、故意に業務を失敗させようとは思っていないのに、自分が悪者のようにみられてい気がして、つらかった」
といった、よくない方の方面で出ることが、多いです。
「競争」はその字の如く、人と「競い争う」ことで、人との優劣がはっきりさせられたり、人との差を示されることになります。
HSP気質を持つ人は、「人と競い争うこと」よりも、
「人と協力し、よりよいものを生み出したい」と考える人たちです。
現代社会の、競争・観察がめざす「先」が何かは分かりませんが、HSPの人がめざしたい先としては
・世界平和
・公正で平等な社会
・みんなが幸せに暮らせる社会
・誰一人として取りこぼしのない社会
・多様性に富み、一人ひとりが豊かさを感じられる社会
etc・・・
が、あります。
ここでは極端に規模の大きい「めざす先」を提示しましたが、実際にはこれらの社会が実現するように、
自分の手の届く範囲で、小さなことからこつこつと活動されている方が、非常に多いです。
今の日本で考えてみると、「経済」を重視していることからも、大企業においては、「利潤追求」を掲げているところが多いと思われます。
そこで最小の労力と経費で、最大の利益を出そうとするならば、国そのものも、常に競争させられる社会があり、
個人の日常生活レベルで「競争させる」「観察される」という習慣が染み込んでいる
と考えてもいいのではないでしょうか。
「競争」自体が、悪いものではありません。
「競争」や「観察」によって成長する人がいますし、物事がありますし、その物事の活性化にもつながることがあります。
誰かの、何かの成長には「競争させられる」「観察される」という方法があって、当たり前だと思うからです。
ですが、「競争」や「観察」という視点で、自分を見られることが苦しいと感じる人もいるのです。
「競争」や「観察」は可視化された結果でわかるので、効率的ではあるのですが、その結果だけで、どれだけ「もう少し頑張って欲しい。」と言われても、感じられるのは、
「自分自身じゃなくて、私を数字で見ている人なんだ。私のこと、人間として見てないんだ?」
という不信感だけです。
とはいえ、企業をはじめとした組織に属することや、家族をはじめとした集団に属すると、なにかしらの、その集団の中での「貢献」や「社会への関わり」が求められます。
その方法が、利便性が重視された「競争」や「観察」だけではなく、
共存が背景にある「協力」や「一人でこつこつ取り組む」という方法が、もっと重視されてもいいのではないかと思います。
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実生活から、考えてみる
私自身は、「競争させられること」「観察される」ことは、好きではありません。
そのことによって、他者と比較され、自分のダメな所を人からダメ出しされ、上手くいけば嫉妬され、
「好き」だったことが「大嫌い」になるからです。
どれくらい嫌いになるかと例えるならば、
生きている間で、「義務」や「強制」という措置が取られなければ、絶対に関わりたくない状態です。
代表的な一つが「走ること」です。
私は、自分が心地良いと感じられるように、適度な運動をすること、走るのが好きな子どもでした。
ですが、小学校に入学し、「体育」という基準が入って来て、その好きは一変します。
・先生に呼ばれて、早く行くために走り
・かけっこで「頑張れ」と言われるので、その期待に応えるために走り
・チーム戦になると、チームを勝たせるために走り
・「走る」というテストでは、座学で学習した体勢の通りに走れているか
そうした「競争」と「観察」が散々繰り返されました。
そうして得たものは、
私は「走る」ことが大嫌いになった、
ということです。
人から見ると、私は走るのが速かったそうですが、何を考えて走っていたかというと、
自分の好きなディズニーキャラクターの走る体勢が好きだったから、私もそのキャラクターを意識して走っていただけ
で、誰かに勝ちたいとか、人に注目されたくて、自分の走りをしているわけではありませんでした。
「教育」というシステムがある以上、「走る」ことを、多側面から学ばなければならないことは仕方がないとはいえ、
自分の「好きなこと」を、望んでもいない状態で、「競争」や「観察」対象として扱われ、評価されるのは、とても不愉快でした。
今現在は、走ることが大好きです。
競争も評価もされない環境で、自由で好きなように、走ることができているからです。
私の場合、「走ること」のほかにも、「競争させられる」「観察される」ことで、するのが嫌になっていた、疎遠になっていた行動がありました。
職場を退職し、人間関係もすべて手放したことによって、以前、大好きだったもの・ことたちが、自分の中に帰って来た感覚があった
ので、今はそれらの感覚で、大いに楽しんでいます。
自分の中で、何かしらの成長が欲しい時や、力試しをしたい時には、「競争させられる」「観察される」ことを活用していますが、
自分自身が望んでいない時の「競争」や「観察」は、「放棄」してでも、「逃げるな」と言われてもしない
と決めています。
自分がどうしたいか分かっているのに、その声を無視して、
自分自身を「競争」や「観察」に駆り立て、自分自身で「スキ」を奪ってしまうことには、反対です。
そうした「スキ」や「楽しみ」が奪われる可能性を考えると、「成長」としての「競争」や「観察」の機会を逃したくないことからも、
他者ありきの「競争させられること」や「観察されること」に対しては、十分に自分自身と相談した上で、その機会に乗るのがいい
と、個人的には思うのです。
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「競争」と「観察」がめざす先は?
ある人が発見した物事を、誰かが観察して、さらに発展させます。
そこで何名かの人が、その物事の性質を解明することを競い、得られた見解から、さらによりよいことへと発展させていくことが、「競争」や「観察」の真髄なのではないかと、個人的には思うのです。
「競争すること」は「勝ち負けや優劣を人と競り合う」こと、「観察すること」は「事物の現象を自然の状態のまま、客観視する」ことと定義されていますが、
・勝ち負けが分かった、”から”何をするのか
・優劣が分かった、”から”何がしたいのか
・客観視した、”から”どんなことを想定し、なそうとしているのか
という、「何」の部分や「どんな」の部分は、すべて「社会が理想とする基準」に置かれていて、
個人の「こうありたい」「こうなりたい」という理想や目標は、個人的に、軽く見られているように思えてしまうのです。
それが「悪い」とはいいませんが、多様性を声高に唱えるのに、社会の行こうとしている方向は矛盾しているなと、感じます。
現に「競争させられる」「観察される」社会や環境が苦になり、そのことが原因で、死者がすでに出ている状態です。
それでもなお、人間の成長には「競争」と「観察」に重点を置き、可視化できるものだけで、人を視ようとするならば、
人間ではなく、人間に限りなく似せた機械を、相手にすればいいことです。
人間には、言葉でも数字でも表わすことのできない、形にならないものを持っているから、複雑な考えや創造ができたり、他者と協力し、そこからよりよきものを生み出せる力がある
のだと、思っています。
「競争させること」や「観察すること」の力を過信せずに、一人ひとりが伸びやかに成長でき、
「この社会が、環境が好きだ!これからも守り続けたい!」
と思える空気を創っていくことが、重要だと思うのです。
「競争させられること」「観察されること」との付き合いは、難しそうです。
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トップ画像は ia19200102様 からお借りしました。
ありがとうございました!
みなさんからのスキに、心温かくしてくださって嬉しいです。
この記事にお時間をいただき、ありがとうございました!
それでは、今日はここまでです。
みなさん、いい休日をお過ごしくださいね。
クリエイターの活動費として、使わせていただきます。 また、日本を中心とした、伝統文化を守り後世にも残して参りたいですので、その保護活動費としても使わせていただきます。