物理的領域と精神的領域の例外
物理的領域と精神的領域の間のデカルトの区別によると、物理的領域は決定論的な法則に従属しているのに対して精神的領域は自由であり、ドナルド・ディヴィドンは、物理的な領域にしか厳密なまともな決定論的法則は存在せず、かつまた心理学の理論は「正確な」予測をもたらしえないと主張しているが、自分はここで一つの疑問が浮かんだ。サイコロのダイス目は物理的な領域に分類されるが、サイコロのダイス目には決定的な法則は存在しないように見えるが、これはどういうことだ?と。
個人的な見解を述べると、サイコロのダイス目は物理的領域と精神的領域の二つの領域が共存している例と考える。
順序を説明すると、
サイコロを投げるきっかけができる→精神
↓
サイコロをいつ、どうやって、どこに投げるのかを決める→精神
↓
サイコロを投げる→精神
↓
投げた瞬間からサイコロが落ちていく→物理
↓
最終的にサイコロの目が出る→物理
多分サイコロの目が確率的な話になるのは、古典力学で考えると自分の意思でサイコロの初期状態を決める際、誤差が生まれるからだと思われる。言い換えると、サイコロが落ちるとき、運動の初期状態に"投げる人の意思による"誤差が入るからと思う。つまり、「サイコロの出る目自体は投げた瞬間に決まっている」ってことになります。なので、サイコロぐらいの簡単な形なら、安定した地形に向けて機械に投げさせれば同じ目が出ると思われる。ちなみにもっと複雑な形状なら、物体の運動はカオスになるのでもっと確率が分散?するが、これも条件を揃えれば同じ目を連続で出せるはずである。古典力学だと局所実在論を用いてこのように説明できる。
これらのことから、人間がダイスを投げた場合にダイスの目は物理的領域と精神的領域が共存している状態になるのだと思われる。