伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第三章)にて
今回の記事は、過去の記事「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第二章)にて」のつづきです。ポール・ヴァレリーが考える時間のあり方や、時間の持続のあり方を、取り出しています。
さて、ヴァレリーにとってリズムは、持続の対極にあります。世界と主体の「ずれ」よりも、「一致」が意味を持つ場合としてのリズムです。
この書物は三部構成です。とくに難解な第Ⅱ部「時間」が、第Ⅰ部「作品」と第Ⅲ部「身体」の架け橋となっています。まずは、第Ⅱ部を突破すべく、第Ⅱ部の三つの章を三つの記事に分けて取り出してきました。
これを踏まえて、第Ⅲ部に臨み、別の機会に記事にしようと思います。
が、
ヴァレリーのリズムを、私は、アンリ・ベルクソンの哲学用語も併せて考えることにします。次の図は、ベルクソン用語を整理したものです。
意識の焦点が、純粋持続と純粋記憶を交互に巡るイメージを持ちます。
強拍は、焦点が純粋持続を通るたびに生じ、強拍と強拍のあいだにある弱拍およびリズムは、焦点がたどる純粋記憶の振動ではないかと・・・。
以上、言語学的制約から自由になるために。
この書物に触れる記事は六つあります。次の「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)」という記事が、それらのまとめです。