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遊びの哲学「今様」

 「今様(いまよう)」とは当世風(今のはやり)という意味で、平安中頃から流行った新しい歌の形式をいう。七五調の四句から成るものが多い。
 「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に、後白河天皇が今様を集成したものである。

遊びをせんとや生れけん、
戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、
我身さへこそ動がるれ。

 最近ちょっと俳句や短歌の本を読んでいて、「5-7-5」や「5-7-5-7-7」という型以外の「型」について考えていた。
 自由に詩を書くよりも、「型」にはめるほうが言葉が思いつくこともあって。
「7-5-7-5-7-5-7-5」の「今様」も面白いかもしれない。

 記憶が曖昧だが、高校の頃、「今様」は国語の時間に習った記憶がない。たぶん、「梁塵秘抄」は日本史の授業で作品名だけ覚えたのだと思う。
 だいぶ後になって、哲学の入門書で「遊びをせんとや生れけん」がよく引用されていて思い出した。
 日本には西洋的な意味での哲学はない、という人もいるが、「遊びをせんとや生れけん」という子どもの視点は、哲学に通ずるものがあるように思う。

 最近、俳句や短歌の記事を多く書きすぎた感じもする。まだまだ「型にはめる」訓練も必要かもしれないが、「型破り」なことをすることに興味をもちつつある。
 単純なことを言えば、俳句では、「5」や「7」を越える音節をもつ単語は、基本的には使えない。もう少し自由度の高い「詩」のようなものを書いていけるようになりたい、という気持ちが少し出てきた。

 「遊びを楽しむ」ということは、創作というものすべてに通ずるものかもしれない。
 ルール性の高い「俳句」「短歌」という形式である程度「型」にのっとって創作した後は、「型のない遊び」である自由詩で遊ぶ。
 とか言って、自由詩を作ろうとしたら、「なんとなく」型のあるものができてしまう。「型破り」で遊ぶことは、自由度が高いぶん、却って遊びにくさも感じる。
 「自由に遊ぶ」ってすごく難しい。



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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします