エッセイ | 論理と情緒
論理と情緒。対立する概念としてとらえられることが多い。しかし、コインの裏と表のように、相即不離のものではないだろうか?と思うことがある。
情緒あるいは感情で語るのではなく、論理的に話すことが求められることが多いように思う。その理由は何だろう?
思うに、情緒・感情というものは、タイミングや人によって異なるものであり、そういったものに左右されない論理のほうが万人に対して説得力をもつものである、と考えられているからだ。
他方で、論理・理屈を押し通そうとすると「気持ちが足りない」「理屈っぽい」と思われることもある。理性的な説明がまったく響かないこともあり得るということだろう。
論理にしろ、情緒にしろ、心の中にあるものを第三者に正確に伝えるためにはどうしたらよいだろう。
情緒が先に来るか、あるいは、論理が先に来るかということは、どちらでもいい。
「◯◯は✕✕である」という気持ちを相手に伝えたい場合、情緒だけで訴えようとしても、それだけでは不十分に思われる。なぜそのような感情をもつに至ったのか、論理的に話さないと説得力をもたない。
逆に論理的に完璧だったとしても、相手方が納得できないということもある。そのときは、相手を納得させようとする気持ちや相手の心情に敬意を払うことが足りないのだろう。
文学というものは、情緒的な文章ではあるが、よい文学というものは論理的でもある。意図的に狙ったものではなくても、情緒を正確に記述しようと思えば、自然と論理的になるのだろう。
数学・科学というものは、極めて論理的なものではあるが、直感的に情緒で感じ取った結論が先にあって、後付けで論理的な説明がついてくることもある。
「アキレスと亀」の有名な話がある。無限級数の和として考えれば、論理的には納得できるが、情緒的には不思議だなぁという気持ちをいまだにもっている。
どんな地図でも四色あれば塗り分けられるという「四色問題」。一応、コンピュータを用いてあらゆるパターンで、四色あれば塗りわけることが可能だということが証明されている。しかし、情緒的に分かるような説明(換言すれば「腑に落ちる説明」)がなされない限り、本当に解決できたと言ってよいかどうか。もっと直感的に理解できるような切り口があるかもしれない。
人を説得するにあたっては、論理と情緒とを両立させるようなことを考えたほうがよいだろう。
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします