エッセイ | 義理なんか捨ててしまえ
世の中を生きづらくしている考え方の1つに「義理」というものがあります。
義理というと、とても素晴らしいことのように考えている人もいます。
しかし、義理というものは、ときに暴力性を発揮するものです。そして、人の感受性を抹殺してしまうほど恐ろしいものです。
私は自分の感受性を尊重した生き方を模索しています。自分の感受性と相いれないことは、絶対にしたくありません。
勘違いしないでほしいのですが、自分の感受性に反することでも、義務を放棄すると宣言しているわけではありません。義務は放棄しないけれども、自分の感受性に反する義理はなるべく捨てていこうと思っています。
誰でもそうだと思いますが、たとえば仕事をしていれば、自分の感受性と相いれないことも多々あることでしょう。
しかし、給料を貰って仕事をしている以上、違法なことでない限り、自分の感受性と相いれなくても、それは「義務」なのできちんと遂行しなければなりません。
私が「義理」と言っているのは、嫌いな同僚や上司が入院したときに、お見舞いに行ったりすることや、行きたくもない忘年会・新年会に参加することという類いのものです。
お見舞いや忘新年会というものは、「義務」ではないはずです。お見舞いや忘・新年会は、法的拘束力のない「義理」のレベルの話ですね。それなのに、なかば強制されるのが一般的です。
もちろん、職場にいづらくなるのであれば、なかなかすべてを拒否することは難しいですが、こういう「義理」から距離をおいてみよう!、というのが私の提案です。
https://note.com/piccolotakamura/n/nc264c871be55
本来、義務ではないことは、果たす責任はないですし、糺弾されるのはおかしい。しかし、断る理由が「その気がないからです」「行きたくないからです」だと、なかなか認めてもらえない風潮があります。認めてもらえないどころか、「江戸の仇を長崎で討つ」的な仕打ちを受けることがあります。
だから、いやいやながらも、行きたくもないお見舞いに行ったり、行きたくもない忘年会に行かざるを得ないのです。
そもそも「義理」という考え方には、いやらしいところがあります。何かをしてくれたら、それ相応の何かをしなければならない、という考え方が潜んでいます。
「相手に義理をあげたら、私に義理を返してほしい」「相手が義理をくれたら、相手に義理を返したい」という、義理の計算ばかりしている人がいます。
考えてもみてください。お互いに行きたくもない結婚式や葬儀に参列することは、バカバカしいと思いませんか?
私の大嫌いな言葉に「情けは人のためならず」という言葉があります。
簡単に言えば、「情けは人のためならず」とは、絶えず相手に対して見返りを求める考え方にほかなりません。強烈な臭気を感じませんか?
義理を捨てた理想的な生き方とはなんでしょう?
私は常々、義理を捨てた理想的な生き方は、ネコのような生き方だと考えています。
ネコなんてエサをあげたって、「ありがとうございます」なんて言ってくれないのが一般的です。そして、こちらが抱っこしたいと思っても、離れて行って「にゃ~」ということも多々あります。
猫は、まったく見返りを強制しません。どんなに私が癒されても「ありがとう」いう言葉を求めません。私は猫になりたい。
冗談で言っているのではなく、かの鈴木大拙先生も、「仏教の教えを最も良く体現しているのはネコである」ということをどこかでおっしゃっていたと記憶しています。
義理なんか捨ててしまえ。自分だけでなく、相手もきっと手枷・足枷から自由になる。