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『ロゴスの市』| 私の大好きな小説



はじめに


 今までnoteには、私の思う「良い小説の書き方」に関して何度か書いてきました。そこでは、なるべく抽象的に書きましたが、この記事では具体例を挙げて書きます。

 取り上げるのは、乙川優三郎(著)『ロゴスの市』(徳間文庫)です。
 まず最初に、私の主観を交えず、前掲書の冒頭をそのまま掲げます。

 女性の同時通訳者と男性の翻訳家の恋の物語です。






(1) 『ロゴスの市』冒頭


乙川優三郎(著)
「ロゴスの市」(徳間文庫)、
pp5-7(冒頭)より引用


 夏の仕事場にしているホテルは房総半島の小さな湾のへりにあって、足下に広がる白い砂浜は月の沙漠と呼ばれている。幻想的な異名の通り、浜には沙漠の船が現れそうな風紋が広がり、すぐそこで波がさざめく。横浜の丘陵から来ると海辺の街は風が強いが、都会の塵埃はない。夏は息のつける風が異国の風を連れて海から渡ってくる。
 
 盛夏の夜明けは早く、その日も三階の客室で目覚めて遅い朝食をとりに一階へ下りてゆくと、ビーチフロントのテラスは眩しいほどの陽射しであった。空はターコイズブルーの海よりも青く、風紋の砂浜は海に負けず波打っている。一夜の宿泊客はもう海に遊ぶとみえて、テラスに憩う人は少ない。仕事の邪魔をする風もないので、弘之はパラソルの下のテーブル席に腰掛けて真新しい英文学の原書を眺めた。するうちコーヒーとパンの朝食が運ばれてきて、顔馴染みのウェイターと挨拶を交わすのも風のない日の日課であった。

 英語圏の作家の分身となってその小説を日本語に訳すことを仕事にしている彼は、逸早く新進気鋭の作家を知ることが多い。中には好きになれない作家もいるが、古典の新訳に挑むときのような先入観はないので、作品と一対一でいられる。どちらかといえば慎重で不器用な方であったから、まだ日本では無名のどうなるか知れない作家の薄い本であっても、翻訳にかかる前に精読しなければならない。この期待に満ちた最も愉しい、学生的な作業なしに分かりきったタイトルすら上手く訳せないからであった。

「あなたには最もふさわしい表現を求めて悩み、考え尽くす時間がある、人間の生の声を訳す私には十秒もない」

  そう言ったのは学生時代からの友人で同志の戒能悠子であった。同時通訳の彼女に許される思考時間はせいぜい一秒だろう。同じ英語でも彼にはできない。日本語ですら人に自分の考えを伝えるのは苦手であったし、ましてや他人の発言を次の他人へ同時に伝えることなどできるはずがなかった。悠子はそれを一生の仕事にした。

「きっと一騎討ちが好きなのね、分別と根気のいる参謀には向かない」

 そんなふうに自分を分析して、せっかちな女を自認していた。それでいて用意周到な努力家でもあった。


(2) 同時通訳と翻訳家


 私が今までに読んできた小説は、原文がロシア語あれ、ドイツ語であれ、フランス語であれ、英語であれ、おもに文学史に残る不朽の名作が多い。日本の現代作家の作品はそれほど多く読んでいません。

 というのは、現代小説の中にも珠玉の作品があると思いつつも、時代を超えて読み継がれてきた古典的作品のほうが間違いないと考えるからです。また、小説そのものよりも、語学的あるいは文法的に面白い表現を見つけるのが好きだからという事情もあります。不朽の名作にはたいてい、原文に加えて、邦訳が数種類あるから、同じ意味内容の作品を読み比べるという楽しみがあります。


 ところで、語学の達人というと、私は同時通訳者や翻訳家を想起します。他にも文学研究者や言語学者もいますが、「同時通訳志向型タイプ」と「翻訳志向型タイプ」とに大別できるでしょう。

 同時通訳者にも翻訳家にも、正確に内容を伝えることが求められるけれども、同時通訳者には迅速性が強く求められ、翻訳家には繊細さが強く求められます。

 音は一瞬で消えていきますが、書かれた文字は後々まで残ります。

 理想的には、迅速性と繊細さが両立している状態ですが、両者にはトレードオフの関係があります。

 通訳が「迅速性>繊細さ」なら、翻訳家は「迅速性<繊細さ」と言って良いでしょう。


(3) あなたが小説を書くときは?


 私は気質的には翻訳家タイプです。細かいところまでけっこう気にします。
 
 「お手伝いします」と「お手伝いしてあげます」。
 「します」と「してあげます」の違いですが、「してあげます」だと恩着せがましさを感じてしまいます。
 日常生活ならさほど気にしませんが、後々まで残る文章なら、「します」に直すかな?


 日常会話なら、気持ちとは別にその人の話し方やクセがありますから、意味内容が伝わればそれでいい。お互いに頭に浮かんだ言葉をそのまま話したほうが自然ですね。換言すれば、気持ちをそのままダイレクトに迅速に届ける必要があるので、日常会話ではみな「同時通訳志向型」です。

 文章を書くときはどうでしょう?
 もちろん、時間だって無尽蔵にあるわけではありませんが、秒単位で「今すぐに書かなければならない」というわけではないので、「翻訳志向型」になるでしょう。


 一般的な傾向として、話すときは同時通訳志向型で、書くときは翻訳志向になると言えます。

 しかしながら、話すときにも書くときにも、2つの型にきれいに分けられるものでもありません。あくまで相対的な型であって、絶対的なものではありません。

 ただ、小説の読み手としては、大意が明確に分かりやすいことを重視する「同時通訳志向型」の人と、文章の巧みさを重視する「翻訳志向型」の人が存在するように思っています。


 自己矛盾しているのですが、私は気質的には翻訳志向型なのですが、書いたり読んだりするときには、同時通訳志向型になります。

 意味内容がダイレクトに届くほうが読みやすいですし、簡単に言えることを美辞麗句を駆使して書いている文章は好きではありません。一読して意味不明なものは、そもそも読む気になれません。


結び


 私は小説やエッセイに関して、直截(ちょくせつ)的な表現を好みます。

 書かれている文章自体は凝ったものではなく、内容がスーッと頭に入ってくるほうがいい。すぐに分かるという迅速性を求めています。その意味において、私は同時通訳志向型です。

 けれども、いやしくも文章を書くときには、迅速性だけを求めているわけではありません。やはり、できるだけ美しい文章を書きたいと願う気持ちは強いです。その意味において、私は翻訳志向型です。


 「機能美」という言葉がありますね。

 美そのものを追求したわけではなく、あくまでも使い勝手の良さを追求しただけなのに、出来上がったものが結果的に美しさをも兼ね備えている。
 
 換言すれば、同時通訳のように、内容を迅速に正確に伝えるということを重視した結果として出来上がったものが、繊細さも兼ね備えている翻訳家のような文章になっているのが機能美だと考えます。

 伝えたいコトがダイレクトに伝わるように書くことが先にあるのが私の理想です。美しさはその結果として生まれてくるものです。もちろん、何度となく推敲に推敲を重ねて文章に磨きをかけることは必要でしょうけれど、それは些末なことです。

 文章を書くときは、同時通訳者的に書きたい。その上で、書いたものが翻訳家的にもなっている。それが私の理想です。


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