[2]WAIS-Ⅳを受けたけど、改めてIQなんてマジでどうでもいい
前回の記事
の続きです。
やっぱりIQってどうでもいい
これは、
優しさ、EQの方が大事だと思っている
僕は特に際立った生きづらさは感じていないため
自分らしく人生を楽しむことのほうが大切
という3点から。
人に優しくなろうぜ
これは僕が優しいということをアピールしたいのではありません。
むしろちょっと欠けているのではないかと感じているので、そこを高めていきたいのです。
で。本当に良くないと思うのが
「ただIQが高いだけで他に何もない人」が、自分のことを特別であると誤解し”IQが低い人”をバカにする
というパターンです。これ、最悪ですよ。ほんとそういうのやめろよ。皆生きてんだよ。
僕は知覚推理が79ということで低いわけですが、このことで”できない人”の気持ちがわかる気がするのですよ。
「いや、これ本当にできないんだよ」「そうですよね、できませんよね」って。
わかると言ったら何かしらの誤解を生んでしまうかもしれませんが、わかった気になっているだけかもしれませんが、少なくとも共感できるところは何かしらあります。
地図が読めないとか、図形問題が解けないとか、集団行動が苦手、とか。
「”努力”してできるようになればいい」とか何も知らない心無い人に言われても、「いや、本当にできねぇんだよ!!」となるだけ。
反対に処理速度が117と少し高いみたいですが、これに起因することで人を傷つけてしまったのではないか、と思う体験があるんです。
前の大学に所属していた時、ゼミで僕からするとあまりにも書類作業が遅い人がいたんですね。で、当時の僕は「もうちょっと早くできない?」と言ってしまいました。憶測かもしれませんが、その人はきっとこの処理能力が僕よりは低かったのだろうなと。
このことは反省しています。ごめんなさい。
何が言いたいのかというと。
いわゆるIQテストと呼ばれるものはその人の生きづらさを知ってより良い人生を送るための手助けとするものであって、それで人を判断するものではない、ということです。
今のところ僕はそこまで困ってない
知覚推理が79ということで標準である100からすると低いですが、これが低いことによる支障を特に感じていないのですよ。
例えばできないこと、苦手なこととして挙げられるものは結構ありますが、しかし意識することで対処可能なんですね。
以下に列挙するものは知覚推理が低いことによるものというより、他のあらゆる僕の特性を含むものです。
図形が苦手→数学とはもう無縁の年齢なので何の問題もない
グラフも苦手→なので言葉に置き換えて理解している
地図が読めない→アプリの現在地機能でok
大きい車を運転できない→小さい車を買えばいい
手書きの字が汚い→PCとスマホしか使ってない。そもそもペンを持ってない
絵が下手→描かなきゃいい。ありがたいことに情熱がないので悲しくない
運動苦手→筋トレは運動神経なくてもできるので最高
ごちゃごちゃした空間が耐えられない→そういう場所に行く機会がないのでok
予想していなかったことが起きると焦る→一度深呼吸して落ち着く、などでok
集団行動苦手→一人か少人数でいるのが好きなので問題がない
疲れてると手足をぶつける→疲れないようにすればいい
物の定位置が1cmでもズレていると気になる→なので物を置かない
建築士になれない→目指したことが人生で一度もない
感覚過敏→耳栓マスク手袋で対応可能
といった感じに対策しているので、現状困っていません。
そもそも何でも完璧にできる人など存在し得ないし、人間誰しも得意なことと不得意なことをお互いに補いながら社会は成り立っているわけなので、凹凸が合った方が人間味や愛嬌があっていいかなぁ、なんて思ってます。
開き直りとかではなく、単にそう感じるのですよ。
できること、できないことに関して必要以上に意味を見出そうとしない方がいいと思います。
仕事で成果を上げることのほうが、人生を楽しむことのほうが大切
IQが低かろうが高かろうが、そんなことよりもこっちのほうがはるかに大切であり現実としての喫緊の課題だろうと。
仕事ってのは何もデスクワークに代表されるものだけであるはずがありません。
そこで生み出したり得たりする金銭の多寡も関係ありません。つまり”生産性”のことを言っているのではなく。
ただ、その人がその人らしく働いて生きることができれば、それはとても最高のことだと思うのですよ。
それ以外に何があるんですか。
で、あえてIQを話題に用いるのならば、それは脳のハードウェアスペックだと考えているのですが、しかしそれは人間であるため交換ができません。
だけれどもソフトウェアはいくらでも新しいものをインストールできるし、無限のバージョンアップが可能なわけです。
つまり見識を広げ、自己のスキルを高め、アウトプットを社会に還元することは自分次第でどこまでも続けることができる。
それがいわゆるEQを向上させるというか、人間らしい生き方を充実させるというか。そういうことなのではないでしょうか。
「発達障害」「ASD」と括るのをやめろ
そもそも”ASD”とはまさに”スペクトラム”なわけで、人それぞれ特性は異なります。
それなのに一口でそうアルファベット3文字に括ってしまうのは非常に乱暴で危険というか、もっと繊細に扱わないといけないものであるなと。
例えばGoogleでASDと検索すると色々なものが出てきます。
で、これってどれも大した根拠がないなぁというのがあれこれいろんなサイトや動画を見てきた上での感想です。中には書籍の形態であっても何の科学的根拠も提示していない著者の憶測で書いたと思われるようなものもあり、あまりにもタチが悪い。
「ASDはこう」「ASDだから」「どうせASDだから……」「ASDだからできない……」
って括るのはマジでやめろ。
当事者である人も、そうではない人も。
そうやってラベリングすることで一体何が生まれるのですか?
笑顔と楽しさはそこにはありますか?
お互いが幸せになるんですか?
「こうだからこう」とタイトル付けをした方が人目を引くし、簡単な共感を得やすいです。
これまで僕も何度かそういった記事を書いてきてしまいました。それはその時衝撃を受けたから、感情を解放したかったからということもあるのですが、注目を浴びやすいだろうな、共感を得やすいだろうな、と思った節もあるのです。
少し良くなかったと反省しています。
で、それは突き詰めていったらビジネス的にも儲かるでしょうね。「発達障害……!?」「ASD!?何それ怖そう……」って不安になる人は確実にいるわけで。
実際、なんか大御所っぽい無駄にサイトだけが豪華な医療機関だかなんだかわからんところが根拠のなさそうなことを延々とそれっぽく書き連ねているのを見て、しかもそこのGoogleマップ星1のレビューをみてその嫌悪感は真実なのだろうなぁと感じました。
あまりにも悪徳商法すぎるだろ。
それぞれ生きている
人の可能性は無限であると僕は心の底から信じています。
誰もが必ず何かを持っているんです。ほんとに。
それは目立つものである必要は全くないし、それぞれがかけがえのないものとしてオリジナルに持っているものです。
たとえば僕はよく、一人で公園へ散歩しに行きます。
晴れの日もいいですが、雨の日も好きですね。特に平日の。
木々が擦れるようすと傘に当たる雨粒、自分が歩く音以外はほぼ静寂に包まれた空間の中、葉っぱにちょこんと乗っているしずくを見るととても感動するんです。あぁ、地球って素晴らしいなぁって。
すごく満たされます。
で、これってきっと僕だけの感性だと思うのです。もちろん同じような人はいるでしょう。でも、全く同じ捉え方をするという人は、そんなにいないのではないでしょうか。
これが僕の持っている可能性、オリジナリティの一つです。
僕はただのオタク
前回の医師の方にも今回の心理士の方にも共通して言われたのは、
「ASDとかって当てはめて考える必要は特にないので、自分のできることをやっていってください」
ということです。
で、これって全ての人間に当てはまることだと思うのですよ。
僕はできることとできないことの差がやや強いだけ。
好きなことと興味のないことの差が激しくて、好きなことにはどこまでものめり込んでいく。
ね、ただのオタクじゃないですか。
この表現が一番しっくりきています。
最後に
実はこれまで書いてきたデータや話は全部嘘です。自分で適当に作りました。
……
となったらどうしますか?
もちろん今回書いたことは全て本当のものです。
僕にとってここで嘘を書く意味が全くないので。
ですが、いくらでも結果の書類を作ろうと思えば自分で作れるわけですよ。
ネットでそれっぽいものを探して、PCかスマホで誰でもそっくりのものを。
さらにWAIS-Ⅳの検査を担当される医師の方との相性も確実にあると思いますし、一概に言えるものではないでしょう。
……
つまり何が言いたいかというと。
IQなんかで人間の価値が決まるわけがありません。
誰もがそれぞれ生きていて、数値が高かろうが低かろうが何かしらの問題を抱えていて、日々を過ごしています。
で、少なくとも僕は”頭が良いだけ”の人より、多少ぎこちなくてもいいから、優しさ溢れる人の方が好き。
そういうことです。