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治療的哲学:制限された中から考える
考えることは意外に集中力がいる。ぼくも毎日、毎日投稿を続けているけれども、一日に数度は集中して考えた上で書いている。
夜よりも朝に考える。昔から「夜書いた手紙は朝に読み返した方がいい」という箴言を信じているからかもしれない。
考えることは自由なのだけれど、ぼくはあえて制限した方がいいのではないかと考えている。
ゲーテが「良いものは制限したものの中から生まれる」といったことを真に受けてのことだが、事実、ボクシングは手に特化しているから高い技術が生まれ、サッカーはご存知の通りだ。
総合的に優れていても、特化した中ではそうではないことは誰でも知ることだ。
心についての探究は、「自分で考える」ということに特化している。そのせいか、なかなか進まないでいる。
多くの人は考えることが苦手なのだ。「頭を使う」というのが、考えるのではなく、憶えるというように思うようだ。
そして、もう一つは自信の欠如だ。
正解を与えられる教育の経験のせいか「グレー」が苦手のようだ。
「正解」は安心を与えるが、「グレー」は不安になるようだ。
しかし、人間の思考は修正しながら正解に近づくという働きがあり、その方が実践的なのだ。
そもそも、答えがわかっているなら考える必要などない。「知ってるならオマエがやっとけ!」と言いたくなる。
心の不調は薬物で解決しがちだが、「薬を使えない」「使わない」という制限をかけるとどういったものになるだろうか。
そういった制限があることと、ないことでは随分と違った答えが見出せるのではないだろうか。しかし、この質問に対する答えはまだないのだ。
考えながら実践し、修正しながらまた考え、再度実践によって磨き上げていく。
ぼくの唱える治療的な哲学はそういったやり方で進める。簡単なことだ。
ただ、制限があることで、絞り込んだ考え方を身につけることが大変なのだ。
既成概念や思い込みを取り除くことも重要だ。バイアスを生む権威や肩書きすらも邪魔だ。
探究するという熱意だけがいるのだ。面倒くさいでしょ。
ボチボチやっていく(#^.^#)