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稲見晶
2019年11月30日 23:37
「ねえ、起きて、早く早く!」 興奮した声が飛びこむ。 せっかくの休日、まだ布団の中でぬくぬくしていたい頃合い。「なに……」と本心より二割増し眠そうな声で答えた。「雪が降ってた!」 指先が僕の頰をぺしぺしと叩く。まさか外に出ていたわけではないだろうけど、冷たい。「まだ、雪が降るような時季じゃないけど……」 毛布を頭まですっぽりかぶって、攻撃を防ぐ。「ほんとだって! 来てみてよ!」
2019年11月28日 23:33
角煮を作ろう。 そう思って豚バラブロックをフライパンで焼いたところ、際限なく油がしみ出してきた。 豚肉は程よく焦げ目がついて表面も固まり、なみなみと油がのこった。 始末に困った私は考えた。 そうだ、獣脂蝋燭を作ろう。 中世ヨーロッパを舞台にしたファンタジー小説ではよく登場する獣脂蝋燭。 高級品の蜜蝋と対比して語られる、粗末な品。燃やすといやなにおいが立ち込めるとは聞くものの、調べて
2019年11月27日 22:08
底冷えの夜には訳もなく、土にぐずりつく早すぎる霙のような情けない涙を軋む心身が求める。 仰向いて沈んでいく胸元に組み合わせた手には甘く熱いアルコオル。 ある時は蜂蜜の融ける黄金のホットウヰスキー。 ある時は気紛れに直視しないままの調合によるグリューワイン。 ある時はホットミルクとマシュマロを加えた賢しらな顔のモーツァルト。 夜は更けていよいよ自分の淀みに酔い痴れても掌には熱が保たれな
2019年11月26日 22:56
生きとし生けるものみな眠りに就くこの長き夜。 透けるかと見紛うほどの白馬が凍土に蒼き跡を残す。 手綱を引く冬将軍。その姿は苛烈に麗しく。 白銀の髪は靡き、追って鋭く霜は煌めく。 真白の大地を見晴らし災厄を討つは彼女が業。 清き芽吹きを、実りの土を、春姫君へ継がん為。 戸を閉めよ、窓を鎖せ。 彷徨える「眠り損ない」は声を騙りて人を呼ばう。 戸を閉めよ、窓を鎖せ。 白き腕が氷柱
2019年11月25日 21:15
重い荷物をがんばって持って帰ってきたのに、ボクは今、怒られている。「わたしも君も、お酒はほとんど呑みませんよね。どうしてこんなに買ってきてしまったんですか」 ボクが正座して、キミが立っているから、キミがすごく大きく見える。膝の上に抱えさせられた瓶が重い。「解禁日だったから……です」「それは知っています。君のことですから、つい浮かれて買ってしまうのは仕方ないでしょう。……でも、なぜ……」
2019年11月23日 21:44
波の下にも都がございましょう……。 平家物語に出てくるその台詞が真実かどうかはわからないけれど、波の下にも橋はあった。 肌寒い潮風の吹く浜辺での散歩中、浜辺にひっくり返って乾きかけていたクラゲを海に戻してやったら、ほどなくして仲間を大勢引き連れて戻ってきた。「オ」「レ」「イ」「ス」「ル」 海面に出た丸い頭を虹色が走る。一匹につき一文字が割り当てられているんだろうか。「ノ」「ツ」「テ」
2019年11月22日 21:37
日が暮れたね。ほんのしばらく前までは、光が波に反射して眩しかったのに。 空の底に沈殿しているオレンジ色も、ゆっくり夜に拡散していく。 君はまだ海を見ているね。 ねえ、いつまでここにいたい? ……光がみんな去ってしまうまで? ふふ。それなら永遠にここにいることになってしまうよ。 太陽が沈んで残光がすっかり掻き消えてしまったら、月や星が輝くもの。 たとえ雲が厚くてその光が届かなくてもさ
2019年11月21日 21:16
あたし、ミルクちゃんはたった今、「出生のヒミツ」に気がついてしまった。 ミルクちゃんは昔、まるい毛糸玉だったのだ。 なにがあったかっていうと。 ユーナと遊んであげようとしたら、ユーナはむつかしい顔してこまこま手を動かしてて、ママが「だめよミルクちゃん、アミモノのじゃましちゃ」って言ってミルクちゃんをよそに持っていこうとしたからミルクちゃんはぴょいっと逃げて、それからまわりをパトロールして
2019年11月20日 22:59
——ソルマル暦492年 藍月 16日 18:03:19 接続完了—— こちら、プラッヤーン。応答願う。こちら、プラッヤーン。> こちら、エシュノク。……混線が発生しているようだ。貴殿の名はリストに載っていない。 失礼。通信待ちのところ、邪魔をした。> よくあることだ。貴殿のメッセージが正しく受信されることを願う。 ありがたい。貴殿も無事にメッセージを受け取れるよう。——通信切断——
2019年11月19日 22:46
糸が部屋に入ってきた。歌って踊りながら。「……ねえ」 ころころと跳ねるリズム。くるくると回るステップ。 手には大判の本を持っている。「糸。どうしたの」 聞いてみても返事はない。ご機嫌みたいだし、落ちつくまで待ったほうがよさそうだ。「たんっ」 目の前までやって来て、歯切れよく歌い終えた。「今日のメニューは……編み込みです!」 目の前にページが開かれる。「なに? これ……」「や
2019年11月17日 23:54
沙絵は神社に行くと熱を出す子だった。 伏せる床では、必ず牛の夢を見ていたらしい。 熱が下がってからも、半日は布団に横たわっていた。天井を見上げるその瞳は年相応に黒く潤んでいると同時に、どこか老成した、達観した色を浮かべていた。 三歳の頃、七五三のお詣りの帰り道に、あの子は言った。「ママ、おだいりさまいたね」「そうだね、シャンシャンってしてくれたね」 祈祷を授けてくれた神主のことだろ
2019年11月17日 00:18
大人になって、ポケットを使わなくなった。 ハンカチはポーチやバッグの中。おやつはデスクの引き出し。ドングリやきれいな石は拾わない。ダンゴムシはそもそもいない。おしろい花の実は摘まない。 これではいつかポケットがアイデンティティを見失って、自分探しの旅にでも出かねない。 ためしに小さな「ナニカ」をポケットに住まわせてみることにした。「ナニカ」は私が着ている服のポケットにいる。いない時もあ
2019年11月16日 08:50
「あの病院」は、地元の人間ならだれでも知っている。 けれども、正しい名前はだれも知らない。仮に知っている者がいたとしても、その名を口にするのは忌避するだろう。 住宅街の中にうずくまる小さな眼科。廃業し、建物ごと打ち棄てられてから久しい。 看板の文字はすっかり褪せているが、描かれた目玉は今なおあたりを睥睨する。風雨にさらされた末の汚れや赤錆が白目を血走らせている。 戦中戦後のどさくさにま
2019年11月15日 00:35
むかしむかし、空には色がありませんでした。 昼も夜もなく、生きものたちは起きるでもねむるでもなく、ずっとぼんやりしていました。 しろくかがやく太陽と月は、そのようすを見て相談しました。「これではとてもつまらない。地上のものたちを楽しませてはやれないだろうか」「絵を描いて見せてやってはどうでしょう。あの空がちょうどあいています」「それはすてきな考えだ。下地にはいっとうきれいな色を塗ろう」