Novelber 13th—かわいい人形
「あの病院」は、地元の人間ならだれでも知っている。
けれども、正しい名前はだれも知らない。仮に知っている者がいたとしても、その名を口にするのは忌避するだろう。
住宅街の中にうずくまる小さな眼科。廃業し、建物ごと打ち棄てられてから久しい。
看板の文字はすっかり褪せているが、描かれた目玉は今なおあたりを睥睨する。風雨にさらされた末の汚れや赤錆が白目を血走らせている。
戦中戦後のどさくさにまぎれて開業した闇医者。
看護婦はみな一か月も続かなかった。
えぐり出した患者の目玉がガラス瓶に詰められている。
院長は行方が知れない。
夜中に前を通りかかると、窓の内から無数の視線が追ってくる。
真偽の知れない噂が数えきれないほどまとわりつく。
それでも私がその病院に足を踏み入れたのは、どうしても手に入れたいものがあったからだ。
正面入口は施錠されていた。側面のガラス窓を破る。
待合室。くすんだ緑色の椅子が並ぶ。壁のポスターは変色していたが、生々しい写真や模式図の印象は衰えていない。
診察室。事務机、二脚の椅子、硬そうなベッド。机の上には、縦半分に割った眼球の模型が埃をかぶっている。黒い革張りの医師用の椅子とは対照的に、患者用の椅子はクッションもないプラスチック製だ。
処置室。歯科医にあるような、背もたれを倒せる椅子が中央にそびえる。その隣には鈍い銀色のワゴン。置かれた器具一式は錆びきっていた。
空振りだっただろうかと落胆しかけてから、ふと壁ぞいに並ぶ間仕切りが気になった。キャスターが付いて動かせるようになっているそれは、壁一面を隠すように広がっている。
大抵は場所をとらないようにひとところにまとめておくのではないだろうか。
間仕切りの奥をのぞき込む。
「院長室」とプレートのかかった扉があった。鍵がかかっていた。
とはいえ、扉そのものは木製だ。錠のまわりを削り、向こう側への目処がついたところで体当たりしてこじ開けた。
視界に入ってきたのは、目玉の集合体だった。書斎机の中央にのさばる。ピンク色のいびつな肉塊にびっしりと目玉を貼りつけているようだった。いくつかはこぼれ落ちて机の天板に散らばっていた。
よく見るとそれはうごめいていた。集合体を構成する目玉の一つ一つが視線を動かそうとしているのだった。
これ、だろうか。
近くで確かめようと足を進める。
目玉の集合体がざわわ、と動く。机の上の目玉が転がり落ち、カアン、と硬い音を立てた。
それを聞いて思わず笑みが浮かぶ。これこそ。
床の目玉を拾おうと腰をかがめる。
背後でうめき声が聞こえた。振り返ってみれば扉の脇に老人が座りこんでいる。
私は考える。
彼はおそらく、もとからこの部屋にいたのだろう。そして私が扉を破ろうとするのに気づき、開けられまいと押さえていた。そして体当たりの勢いに跳ね飛ばされて——。
「それに……触るな……」
彼は震える指を私に向けた。
私は彼を見下ろして呼びかけた。
「院長先生。実に美しい眼球ですね」
彼は一瞬だけ目を見開いた後に、笑みを浮かべた。
「そうだろう。私の作品だ」
「『あなたの』作品? 冗談じゃない。あなたは何もしていない。これらはすべて、ほかの人間の目玉でしょう」
院長の顔が歪む。なるほど、「目は口ほどに物を言う」というが、目玉そのものに表情が宿るわけではない。問題になるのは瞼や眉の相対関係だ。
「院長先生。私はあなたが後生大事に蓄えているこの目玉たちに、日の目を見せてやりたいのですよ。本当の作品に昇華させて」
彼はよろよろと立ち上がった。その目は黄ばんだ濁りを見せ、老化をうかがわせる。
「許さん……。それは許さん……。出て行け! 今すぐに!」
「ええ、今日はこのあたりでお暇しましょう。これはサンプルとしていただいておきます」
床の硬い目玉を拾う。院長は言葉をとらない叫びをあげて私につかみかかってきた。
ギャラリーに並ぶ私の作品たち。
「きれいねえ、この人形」
「本当に生きてるみたい……」
女性の二人組の会話が耳に入った。さりげなく彼女たちに話しかける。
「ありがとうございます。実はこの目が、特製でして。ガラスでは出せない深いニュアンスがあるでしょう」
「ええ……。なにでできているんですか?」
「それは企業秘密です」
ちょうどほかに来場者もいない。私は彼女たちに作品ひとつひとつの解説を語った。
最後の展示物。
「あら、こんなおじいちゃんの人形もあるんですね」
「それは参考出品物なんです。私の作品ではないのですが、今回の展示の……いわば功労者といったところですかね」
Novelber 13 お題「あの病院」
※お題は綺想編纂館(朧)さま主催の「Novelber」によります。
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