「フラット・キャラクター」考察への助走
大岡昇平は『現代小説作法』の第12章「人物について」の中で、フォースターを引きながら「ラウンド・キャラクター」と「フラット・キャラクター」なる概念について説明している。前者は、簡単に言えば心理的な綾を持って描かれる人物で、後者は記号的、今風に言えば「キャラ的」に描かれる人物である。大岡は夏目漱石『坊っちゃん』のキャラクター造形(赤シャツ、山嵐、うらなりなど)はフラット的であると述べており、異論はないが、もっと現代的な例で言うと阿部和重の『プラスティック・ソウル』などが非常にフラット的であると思う。そこで登場する人物たちは、
アシダイチロウ
イダフミコ
ウエダミツオ
エツダシン
オノダシンゴ
と名付けられている。「ア→イ→ウ→エ→オ」、「1→2→3→4→5」、そしてダの反復と、キャラが記号的に扱われていることは瞭然であり、未読の人も、アシダイチロウが内面のドラマに苦悩するとはよもや思えないだろう。
一般的なイメージでは(それは例えば「このとき主人公はどう思ったか」といった設問をもうける現代国語的には、という意味だが)おそらくラウンド的な読書のほうが豊かなものであると思われているだろう。フラット派はそもそもこうした問いに「いや、字じゃん。字は何も思わないですけど」と回答するため、貧しい読書をしているように思われるかもしれない。だがフラット派の私としては、そんなことないよ!と言いたいし、「そんなことないよ」以下を上手に語ってみたいものである。自分ではなかなかそれがうまくできない。
しかし例えば丹生谷貴志の深沢七郎論を読むとき、あ、彼はフラット派を擁護してくれているのでは、と思う。丹生谷は『楢山節考」など「農村もの」で有名な深沢の力点をずらし、「高校生もの」、とりわけを「東京のプリンスたち」などを重点的に論じる。そこで描かれる心理的屈託をまるで持たない人物たちを「ニンゲンなしの世界」とまとめてみせる。ここでの「ニンゲン」は、道徳的あまりに道徳的なそれであるだろう。他にも丹生谷は『家事と城砦』の最初の章で、阿部和重「鏖」に出てくる「オオタタツユキ」を、ヤコブソンの用語でいう「シフター」(転換子、「それ」など、他と取り替えがきく名詞の一種と解せばよいだろうか)と見立てたり、書き割り的な世界で当時毀誉褒貶を受けていた中原昌也を擁護したりしてみせる。
ここまで主に私の関心から、フラット・キャラクターについて述べてきたが、ラウンド・キャラクターについてより詳しく知りたいと思われた読者は、又吉直樹の『夜を乗り越える』などを読むといいと思う。私とはかなり意見が異なるが、それはそれではっきり筋の通った「文学の読み方」が書かれている。
最後にやや蛇足であるが、私がなぜ心理的綾のないフラット・キャラクターに惹かれるかというと、それが「本物のおともだち」を描くためのよすがでもあるからだ(「本物のおともだち」がわからない方は拙稿「本物のおともだちとはなにか」を参照されたい。また併せて拙稿「げんきなおともだちを描く」も参照していただけるとより理解が深まると思う)。おともだち云々の話は完全に「こっちの話」で、多くの人には関係ないかもしれないが、私にとっては喫緊の問題であるので記しておいた。
大塚英志、東浩紀、斎藤環、さやわか、岩下朋世など、さまざまな論者によって「キャラクター論」が出版され、どれもそれなりに興味深いが、私にとってドンピシャのものはこの中にはなかった。どれを読んでも少しの不満が残る。…ということは、「自分で書け」ということなのだろう。その難しさは痛感しているが、来るべき“私の”「キャラクター論」への助走として本稿を書いた。