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本音を切り捨てることに慣れてしまってる人たちへ

小さいときから、知らず知らずに本音を切り捨てることに慣れている人たちがいる。
訓練のように、本音を我慢し、笑顔の仮面で武装する人たちがいる。
年のわりに賢すぎて、状況判断から本音を切り捨ててきた人たちがいる。

「人に迷惑をかけてはいけません」
一方から見たら正しいけど、違う方から見たら間違っている教育論。

「わたしさえ、我慢すればいいよね」
その場しのぎでベストかもしれないけど、実はそうではない理屈。

「思ったことを素直に言うと決めてるの!」
素直さは大事だけど、それが他者を傷つけていい理由にはならない。

「人のために尽くしなさい」
相手のため、相手のためとエネルギーを使いすぎると枯渇する。


なんか、小難しい話から始まった本日のコラムですが、お付き合いください。
「気持ちを大事にする、ってなに?」というお話。


わたしは小さいとき、親がアクティブだったので(今もアクティブだけど)夫婦喧嘩を見て育った。怒鳴り声、物が壊れる音は、よく聞こえていたし、朝起きると壁に穴が開いているのは普通のことだった。酒乱も浮気も、家にお金を入れないのも、いつものことだった。父親本人は記憶がないのも、常だった。そして、その父の帰宅時間は、粗探しの粗を隠すために必死な時間だった。
だから「いやだなぁ」と思っても、その場で「それやりたくない!」と親を困らせることはなかった。状況判断から、いやだという気持ちは切り捨てて、行動できた。いやだ、と言うよりももっと恐ろしいことが待ってるのを知ってたから。
「欲しいなぁ」と思っても、その場で
「ほーーーしぃーぃ!!」と大泣きした記憶もない。誕生日でもないのに、ねだるなんてもってのほか、と決めつけて、状況判断から、欲しいという気持ちさえもなかったことにしてた。貧乏じゃないけど裕福でもない、と知っていたから言わなかったし、言えなかった。
反して、弟は「ほしいー!」とおもちゃ屋さんで大泣きして暴れる子だった。あれあれ、と言われて買ってもらえる子。
そのときに、買ってもらえそうな金額を計算して、それを「……わたしも」と言って、ちゃっかり買ってもらってた。キラキラしたアクセサリーや1000円する筆箱はダメでも、3番目に欲しい280円のファイルなら買ってもらえる。弟は3980円という戦隊ヒーローおもちゃを買ってもらってたけど。
1/10〜1/8の金額なら買ってもらえるから、それでも『買ってもらえるだけ幸せ』と切り替えるのだ。



それを変えましょう!

そんな指導をいただいた。


倫理法人会では「倫理指導」という指導が受けられる。
5つも会社を経営して、軌道に乗せ続けてる方たちや、80近くても働くのが好きで現役で働いてる方など、日常、出逢うことのない人から「指導」という形でアドバイスを受けることができる。
経営相談、家族の相談、介護相談、病気の相談、相談内容も多岐にわたるし、会員なら誰でも受けられる。
「受けたことなかったから受けてみたくて」という興味本位でも、もちろん大丈夫。
わたしは1回目は興味本位で受けたのだ。「悩みないんですがー」と受けにいった。

相談内容は守秘義務があり、それも申し込み用紙に明記してある。
受けた人は、必ず100日そのアドバイスを実行する、という義務が発生する。とはいえ、できないことは言われないし、難しそうなときは、それ自体もその場で聞くといい。
「わたしには難易度高いんですが、違う方法あります?」
「ここまでならできそうなんですが、これってこういうふうにしてみてもいいですか?」
交渉はできる。



1回目にどんな相談をして、どんな指導を受けて、どんな行動をしたのかを、すべて答えたら、こう聞かれた。


前回の実践をしてみて、ご自身はどう思いましたか?



答えられなかった。

親がどう変わったか、は、わかる。
わたしがどう変わったか、は、わかる。

わたし自身、どう思ったか?
なんて、気にしたことがなくて、考え込んでしまったのだ。

「嬉しくなったとか、嫌だったとか、何かありましたか?」と聞かれ
「見方を切り替えました!」
そう答えた。

感情を聞かれてるのに、行動を答えた。

「切り替える、も確かに大事なことです。
 切り捨てる、も場面によっては大事なことです。それが悪いことじゃない。そのときは、それがよかったんです。それに助けられた部分も多くあったと思います。
 だからこそ、です。
 自分の気持ちを感じるということもしてみましょう」


ハッとした。


11月に神社の神様にも同じことを言われてたことを思い出した。おみくじに天津神社に行くように書いてあり、そこに行ったら、なんと御祭神は少彦名様だったのだ。少彦名様は幼少期から遊んでもらった神様だから、馴染みがある。
そのときの言葉は忘れないように写真に記載していたから、記録に残ってた。


11月に言われてから、やってきたつもりだった。
気持ちを切り捨てることをやめて
なるべく感じるように意識してた……つもりだった。

「つもり」でしかなかったんだなぁと、改めて思う。


あの相談内容から、ここに辿り着き、
同じことを言われるなんて、思ってもみなかったから。



指導でいただいた実践課題(行動)は、全然難しくなかった。行動自体は、難しくない。
【二重跳びを20回】みたいな行動自体の難易度が高いわけじゃない。

でも、
本音を切り捨て、我慢や傷つくことが普通になってる人からすると、結構な難しさのことを言われた。



「あの……質問なんですが、気持ちを大事にしたときに、やだなぁ、とか、むかつくなぁ、とか、腹立つなぁ、とか思ったらどうするんですか?
 今までは「楽しそうなことに見方を変えよう!」ってチェンジして、やってたんです。ダイレクトメールのチラシを折るとか、そういうときも、めんどうくさいなぁ、と思いつつ、○時までに終われば面白いんじゃない? と切り替えてきてて。
だから、感情や気持ちを大事にって言われても、どうしたらそこに結びつくのか、よくわからないんです」

と、そのまま聞いた。
(実際はもっと言葉足らずだったけど。それを加味して察してくれた)



「やだなぁ、って思ったら、やだなぁって思ったまま、やるんです。腹立つなぁ、と思ったら、腹立つなぁと思ったまま、その行動をするんです。
 それでいいんですよ? 
 無理に切り替えたり、無理に切り捨てたりしなくていいんです」


わたしは、それを聞いて思ったんだ。
やだなぁって、思っていいの? って。
怒っていいの? って。

自分の心が傷つけられたとき、わたしの落ち度だ、と思ってしまうからこそ、わたしは「怒り」で自己防衛ができない。
ふざけて笑って聞き流す、という自己防衛はできる。高級スナックで習ったから。他人のために怒れるが、昔から自分のためには怒れない。だからこそ、アンガーマネジメントの本を読むと、びっくりするのだ。「こんなくだらないことで怒っていいの?」って。




「なんか……ニンゲンっぽいですね……」


にっこり笑顔で、こう言われた。

「人間ですからね。それがいいんです」



自分を置き忘れることは、クセになる。
「相手のためにしてあげた!」という自己満足が得られるから。

自分を犠牲にすることも、クセになる。
「そうしてあげた私が好き」という、いびつな自己愛を得られるから。

その結果
「ごめんなさい」が口癖になったり
「わたしなんて」「こんな私が……」がクセになる。
実は、そこから先はすべり台のようになっていて、リストカットや拒食症、過食症、うつ、生きてる価値がない、につながるのかもしれない。




最後に……

「わたしの友達、素敵なんです!」
「子どもたちはね、こんなにいい子たちで……」
と話し切った後に言われた。


「そんな素敵な人たちが周りにいて、
 そんな関係をつくってこられたのは、
 少なくとも、ご自身ですよ」




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