雑記59 読書メモ:徒然草 31〜40段ノート
雑記 読書メモ:徒然草 31〜40段ノート
2200文字ほど
前置き:
自分は古文に対して興味も関心も持たずに学生期間を終え、その後も長らく古文に対して関心を持たないまま年月を過ごしてきました。
20代の半ば頃から小林秀雄の著作を好んで読むようになり、小林秀雄の著作の中で熱心に言及されている著作家の作品に、自分も自分の手で触れてみたいという思いを強く持つようになりました。
小林秀雄は、吉田兼好とその著述集である徒然草を実に高く評価しているようで、自分としては、古文の知識も学生時代からの無学がたたって浅いものですが、原文や注を「声に出して読むこと」によって、自分なりに面白がって読むことはできるように感じています。
(何かと誤読している可能性もありますが…)
浅学ながら読む内に、徒然草の内容と自分の身の上のこととが重なって感じられたり、または、人から見聞きしたちょっとした話と徒然草の内容とが重なって感じられるようなことが何かとあるように感じています。
色々と誤読もあるかと思いつつ、読書経験からの感想を書き記して、固形化して、蓄積できるような状態にしておこうと思っている次第です。
感想を固形化していくことで、誤読や知識の不足を修正しやすくなり、湧いてきた感想は枝葉がついて更に育っていきやすくなることを期待しています。
感想の他にも、読んで、いまいちピンと来なかった文字や単語などについてのメモ書きのようなものも書き記しています。
岩波文庫の徒然草
新潮古典集成の徒然草
の2つを主な資料としています。
(どちらも、著作権存続状態。パブリックドメインではない。)
(Wikisource上の徒然草ならば、パブリックドメイン化している。)
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徒然草 岩波文庫 第31段から第40段までを読んでいる。
ここからは、第31段、例えばチャプター31と言う具合に呼ぶ。
チャプター31 「一筆(ひとふで)のたまはせぬほどの」
↑
ひらがなの固まりで、「一筆の、たまはせ…」とも見えうる。
「一筆、のたまわせぬ… 」という区切り方になる。
(見やすいように、は → わ 、と変えて表記している。)
ひらがなの連続が古文では多く、初見で音読すると、区切り箇所に迷うことがある。
チャプター32 「9月20日のころ、ある人に誘われたてまつりて、明くるまで月見ありく事はんべりしに、」
(引用。現代仮名遣いに筆者が変更を加えている。)
自分のコメント、
兼好が、人に誘われて、月見に一緒に深夜帯に出歩いているというのは面白く感じる。無駄を削ぎ落とすようなところのある人に感じているが、こうした付き合いも楽しんでできる面もあるのか。
チャプターの最後の「その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。」とある。兼好を誘った人が、亡くなったのかと思うが、そうだとすると、共に月を見た時、だんだんと亡くなるのでは、という兆候はあったりしたのだろうか。
チャプター38 長い。 「可・不可は一条なり。」とある。どういうことか、よく今わからない。
チャプター39 法然上人について。「止め侍らん」とあるが、「止め」→ヤメ、と読む。トメではない。
眠くて念仏ができない、という人がいると、法然は、「眠気が消え去るほど念仏せよ」という。
「疑いながらも、念仏すれば、往生す。」
という法然の言葉。
自分のコメント、
これは、兼好の書いたものの中に、似たものがあったように思う。「気が散っていても、何も持たないよりは数珠を持って時間を過ごせば、仏道へ寄る心は増す」という具合の内容。
(こういう兼行の意見は、スポーツなどで指導者が「集中しないでやるくらいなら、やらない方がいい」というような意見を言うケースと違う立場にある。)
(兼行は、「集中できずに雑念だらけで念仏を唱えるのでも、全然念仏を唱えないより、ずっと念仏的なものに自分を寄せたモードにはなっているふずだから、集中できてないな、と思っても、実行する方が良い」 というような具合である。)
(昔読んだ楽器入門の本で、著者の方の友人の一人は、
「いつも、"ながら練習"的に、ギターを触っていて、人と雑談している時も、他のことをしている時も、集中せずに"ながら"でギターを触り続けていたらしい。
その友人は、"バカテク"と言われるような桁違いの技術を身につけていた。
その友人は、一日の間に、おそらく10時間とかすごい時間量、苦もなく、ずっとギターをいじくっていた。」 とのことであった。)
(ハンターハンターで、ゴンとキルアが念能力の発動を維持する訓練を、だんだん慣れてきて雑談をしながら行うシーンがある。それを、たしかビスケが監督している。
二人は"ながら"練習で長時間の訓練をしていて、そうした状況は上達に有効なものに感じる。)
(しかし付け加えるなら、「その"バカテク"の友人は、個人の実力は桁違いだったが、他のプロレベルの人とうまく噛み合っていくことができず、プロの世界には入っていかなかったらしい。
"ながら"的な 練習による 個人のパワーアップとは別に、"誰かと合わせていく"という技能のパワーアップも必要ではないか、ということを自分は感じた。
他人と合同で、組み手やセッションなど、"ながら練習"が長時間できるような環境や取り決めを整えると、更に良いように思う。)
↑ 上記の参照元は、
きりばやし ひろき
大人のための3日間 楽器演奏入門 (講談社+α新書 281-1D)
徒然草に戻る。
「往生は、一定(いちじょう)と思えば一定、不定(ふじょう)と思えば不定なり」
という法然の言葉。
自分のコメント、
法然の三つの言葉がチャプター39では紹介されているが、これらを見つめると法然についても少しイメージを持つ手がかりになるかもしれない。今、自分にあまりにも法然について知識がないので、ほんのちょっとした断片でもイメージを持つ手助けになってくれる。
チャプター40 因幡の国にて、美しいが、栗ばかり食べて、米類を食べないという娘の話。
異様 と書いて コトヨウ とルビがふってある。
その娘は入道の娘。
徒然草のチャプター31〜40を音読し、8分ほどかけた。
音読とノートの作成をしていて、論語を近々やりたいと思った。論語を読んで、似たようなやり方で内容をノートしていきたい。
余談、最近、徒然草の朗読CD 新潮社から のものを視聴した。
ディスク1〜2は、本文の抜き出しの朗読で、
ディスク3は、水上勉氏による徒然草についての雑感の語り(肉声)であった。
その中で知った話をここに書きたいが、あまりに咀嚼が少なく、うろ覚え感が強く、自分の受け取り違いが多くあるかもしれないと感じ、今は控えておく。