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雑記48 ドストエフスキーの著作についての読書メモ : カラマーゾフの兄弟、「作家の日記」について

雑記 ドストエフスキーの著作についての読書メモ : カラマーゾフの兄弟、「作家の日記」について


今回、罪と罰については触れていない。




目安文字数  2200





■ドストエフスキー 作家の日記 読書メモ




ドストエフスキーの 作家の日記  にチャプターの記入をしている。
全集版の 作家の日記 上巻にて、 1876年6月号は、第一章に ジョルジュ・サンドが亡くなり、弔辞としての文章がある。

不※明   →わからない単語、※は 門構えの中に 單 が入る。
老※    → ロウオウ    ※は、左に女へん、右に温 の右側を足す。ルビがあるので読めるが、ルビが無かったら読めない。
鞏固  →キョウコ

漢字のつくりを表す単語や用語について、もっと詳しく習熟したい。






■ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」へのチャプター記入、長老ゾシマのエピソード






印象深い「長老ゾシマの過去のエピソード」の所在地(チャプター数)を確認できた。


本へのチャプターの各ページ(各見開きページ)への記入は、読書中の自分の所在地を確認することに助けになる。



今まで自分は、ドストエフスキーの カラマーゾフの兄弟の  ゾシマの昔話を面白く感じて、何度も思い出していたが、ゾシマの昔話が作中のどのあたりに位置しているのか、把握できていなかった。


今回整理したところ、以下のようになっている。



チャプター6-1 から 6-3 が、ゾシマが臨終を迎えようという場面である。
(チャプター6 は 6-3で終わり。)



チャプター6-1 ゾシマがこれから最後の物語りをする
チャプター6-2 ゾシマの昔話(A B C D)
チャプター6-3 ゾシマによる宗教についての論説(E F G H I)



という内容になる。



特に、自分の印象によく残った話は、
チャプター6-2 の (C D) の二つで、以下のものだった。





6-2-C 決闘    
(ゾシマは劇的に心が入れ替わる。)
(こうした劇的で驚くほど短時間の内の内面的変化は、デカルトの例と共通しているように思う。身の回りにも、似たようなサンプルを自分は見聞しており、実に実際的なものに感じている。世の中で「ありふれている」とは思うわないが、確かにこの世に存在している現象だと自分は思っている。)


6-2-D なぞの客      
(心が入れ替わったゾシマのところに、不思議な客が訪れる。)





こうして、全体の中の 地番とか座標のようなものを確かめておくと、急に参照したい時に便利だし、何かと思い浮かべたりしやすいように感じる。




■ドストエフスキーの 「作家の日記」からのメモ



述べるいとま (ここで改行)
(次の行の頭から) がなかった。

と本の中に縦書きで書いてあり、それを目でパッと見た時に、

述べるいとま  

述べるまいと

と認識されて、「私はこれについては述べるまい、と思った」などという意味の文が書いていると咄嗟に思った。




声に出して全体を読んだ時に、

「これについて、述べる イトマ が無かった(暇がなかった)」 と書いていることをはっきり認識した。




黙読による スキャニングは、時々自分にこうしたエラーを与えてくる。

(ちなみに、上記箇所は、ドストエフスキー全集の 作家の日記 上巻より、 1876年6月号 冒頭)

■黙読における認識のエラー・間違い




単純に読解の力の不足なのかもしれないが、読んで理解したつもりで、「誤った読解を手土産にしている」ことは、思ったよりも多く発生しているかもしれないということを思うことがある。



そしてそれを気づかずにいる。
自分は、あるバレーボールの試合について書かれた文章を黙読して、ある場面の出来事を自分は第五セットの終盤、つまり試合の98パーセントほどの進み具合で起こったものだと認識した。
第五セットの21-19などのスコアの時に、その出来事が起こったと思った。

(竹下佳江さんを取材した本で、五輪出場権をかけた日本対クロアチア 女子バレー において、日本側にメンタル面での打撃をもたらす致命的なワンプレーがあった場面である。)



その後、その文章を「音読してみて」 初めて、その場面が第四セットの出来事であり、試合の80パーセントほどの進み具合にて起こった出来事だったと認識したことがある。

よくよく考えてみると、バレーボールの試合は、大抵第五セットは、15点で決着がつく短期決戦になるので、第四セット以前の20-20くらいのスコアと、第五セットの20-20近くのスコアは、試合終了までの距離に大きな違いがあり、全く別ものになると思われる。そうしたことを考慮すると、黙読して第五セットの話と認識した誤読は、我ながらつっこみどころが明確にあるのだが、黙読して、眼で情報をスキャンしている時は、そうした誤りに不思議と気づかないのである。



こうしたことは黙読と音読の性質の差によるものか、
または、自分の読書能力の程度によるものなのか。

■米川正夫さん翻訳のドストエフスキー、トルストイ作品を朗読し、アップロードしていきたい


それはともかく、ドストエフスキー作品をより読み深めていきたいと思っている。
読むと共に、興味深く感じたことを引用を含めつつ記事にしていけると良いと思っている。

ドストエフスキー作品を多く翻訳した米川正夫さんは、没後時間が経過しており、パブリックドメイン化している。著作権フリー状態と言っていい。

米川正夫さんの翻訳のドストエフスキーやトルストイ作品を朗読した音声データを、だんだんとアップロードしていけたら、という願望を持っている。


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OndokuAikouka(音読研究×小林秀雄散策)
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