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雑記28 物理学者、小林秀雄からの案内、物理学者の書く一般書

文字数目安: 2200〜2400


■01

小林秀雄の文章に親しみを持つようになって、その延長で自然と、小林秀雄と対談した物理学者や、物理学に見識のある理系の学者への親しみを持つようになった。
(物理学者の湯川秀樹、数学者の岡潔)

本の中で、「次の著作者と本とを紹介・案内される」という流れによって、例えば、

①小林秀雄→湯川秀樹→朝永振一郎→シュレーディンガー…

②湯川秀樹→プランク、ボーア、ボルン、アインシュタイン…

という具合に、"紹介"のリレーのようなものの恩恵で、何人かの物理学者の存在を知り、その学者の直接に書いた文章に触れるようになった。


■02

(余談だが、筆者は
①「学者本人、または本人と強い情緒的経験を共有した人間の著作」と
②「その学者について、第三者、特にその学者について情緒的経験を全く持たない人間による著作」、
とを別個のものと見なす習慣がついている。)
(それは、もしかすると頑なで、偏った姿勢・態度なのかもしれないが。)

(そのため、自分のよく把握していない人の書いた「湯川秀樹について」という具合の書物は、強く心が誘われることがない場合や、偶然ふと手が伸びるということが無い場合、中々、手を出さないことが多い。
湯川氏の長年の親友であり、多感な時期を共有した朝永振一郎氏が「湯川秀樹との思い出」という文章を書いている場合、意欲を持ってそれを読む。)

(言い方を変えると、その人を知りたければ、噂を集めず、本人から発される言葉を、倍の労力を投入して見聞する、という方式を好んで採用している。)

(本人の言葉に、誤りや虚飾、誇張がもしあっても、
もののけ姫のアシタカの言う「曇りなき眼(まなこ)で見る。」ということが出来れば、そうしたものを差し引いてものを見ることができる、と思っている。)

(その「曇りなき眼」というものを得ること自体が難しいとは思うが。… 筆者は道半ばの未成熟な状態であろうが、少しでも良いものに変化していけるよう願う気持ちはある。)



■03

自分は物理学への知識はほとんどないが、物理学者の 書く、「物理学に知識の無い人間でも実に興味深く読める書物」は世の中に多く存在していることを実感として強く感じるようになった。

また、その「興味深く感じる」 という感じ方は、「頭脳の回転が速い人間の、超人技巧を見て楽しむ」とか、「斬新な視点や解釈に驚かされる楽しみ」というようなものとは、違うものである。


作家の永井龍男が、チェーホフの著作に親しむ内に抱くようになった、「いい おじさん」 という意味の言い方に似たものだ、と感じる。

朗らかで、優しい情緒が常に感じられること。
そして、自分よりも長い時間を生きた人間が持つ「人生の岐路に対する大事な知恵を持った人間」に対して自然と心の中で抱く頼もしさや信頼感、
といったものが、「いい おじさん」という意味の言葉の内訳のように思う。

フリーマン・ダイソン、ボーアなど、上記の流れの中で知った著作家・学者の文章に、自分はあくまで日本語訳にて接しているが、


(自分の場合、大抵の場合、「音読・声に出して読む」ので、基本的に一般的尺度からすると相当な"遅読"で読むことが多い。筆者はそうした遅読を、河上肇の著作内の言葉から、「スロモー」的読書と言いたい。 スロモー=スローモーション 。
(河上肇の著作において「スロモー」という言葉が出てくる。) )


文面を丹念に辿っていると、文章の背後にいる著作者の心の趣が感じられるように思う。
筆者自身、自分の人生の歩み方に迷いや不安を感じることが多々ある。例えば、フリーマン・ダイソン自身の著作を読んでいると、当ブログ筆者の置かれた状況と、ダイソンの書く内容とが、重なり合うように感じられ、「この歩み方でも良いのかもしれない。」と思えるようになることがある。

それは、ダイソンの著書の中に、ダイソン自身の人生の歩みの中での迷いや不安についての素直や記述が散りばめられているからだと思う。


フリーマン・ダイソンの
ガイアの素顔



■04

話は変わるが、学生の頃、筆者は高校物理(注1) の授業の早い段階でつまづき、苦手意識を持つようになった。そして、早々に物理の履修を最短で切り上げられるように工夫した。

「モル」の概念の理解でつまづき、そのつまづきによって先に進む道を見いだせくなったように感じた。

(注1: 読んで下さった方の指摘を受けて自分の思い違いを知ったが、「モル」は主に高校物理でなく高校化学の履修内容のようであった。理科総合の名で、物理・化学の混ざったものの履修の中で自分が誤解したのかもしれない、という話も聞いた。いずれにしても、自分は高校時代、物理・化学両方に関心を持てなかった。)


そしてまた、物理の授業の先生 (また、化学の先生) に親しみや愛着を持てなかった。代わりに、世界史と英語の先生に親しみと愛着を抱くことが多く、筆者は 次第に物理嫌い (かつ、化学嫌い)、世界史・英語好きの学生に変化していった。


今思うと、ないものねだりのようなものであるが、その時に、物理の教科書の代わりに、著名な物理学者の一般向けに書いた本や、学者の人生の振り返りを書籍にしたものを読むように促されていたら、間接的な回り道をして、物理学への関心や親しみをもう少し持った学生になっていたかもしれない、と思う。
(今になって高校生向けの物理図録(確か数研による出版)などを入手して、関心を前よりは強めてはいるのだが。)

「文系的嗜好」を持っている人でも、理系の学者の書いた文章の中に、人生全般に共通する教訓を見出したり、自分と似た人間性を見出し、親しみを見出すということは、発生しやすいことのように思う。

親しみの沸いた物理学者を心の中に持てると、彼らが没入の対象にしている物理学に対しても、今より、「もうちょっとだけわかるようになってみたい」と素直に感じるようになる気がしている。

それにしても、この文章は、当初、物理学者のファインマンの本の中の、気に入った文面を紹介したいと思って書き始めたのだが、脱線に脱線が重なって、当初意図した内容とは全く違う内容のものになった。

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OndokuAikouka(音読研究×小林秀雄散策)
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