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対人関係がこじれる理由(後編)

(前編)の続きになります。

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これまで私は学校では、常に先生が良しとすることをやってきたので、怒られたり注意されたりしなかった。逆に、怒られたり注意されたりする子を見ては、ヒヤヒヤしていた。自分は先生から"良く思われたい"と思っていた。

良く思われたい、怒られたくない、それは→怒られたり注意される事に怯えていたから。

家の中では親の価値観が絶対だった。(特に父の)具体的なことを挙げたらキリがないので省くが、父にとっての"正しい"や"こうあるべき"が、絶対だった。もちろんそれに反抗したり意見を言ったことも何度もあるが、最終的に子どもの気持ちや意見など潰される。親の正しさや価値観のふるいにかけられる。

言い争いになれば、罵声・怒鳴り声・暴言で心はぐちゃぐちゃに潰される。必死に抗おうと戦おうと何度もした。でも私の中に最後に残るのは、数えきれない把握しきれない程のトラウマと、悔しさと、憎しみと、怒りと、悲しみがまっすぐに父へと向かう意識として残った。父(他人)と自分とを切り離せなかった。とても切り離せなかった。それはもう頭ではなく、神経に細胞に…深く染み込むレベルで強く根付いている。父に従うことは絶対なのだ。

幼少期〜学校を卒業するまで、先生の言うことや親の言うことが、正しい世界だった。それが自分の中で"絶対"だった。

「廊下を歩く時は私語を慎みなさい」「人間性云々言う前に、やる事をちゃんとやれ!ちゃんとやれないやつが人間性についてとやかく言えるのか!ふざけるな」等々、耳にタコができてます🐙

精神が安定している子は、先生に怒られたり注意をされても、"あ、悪いことなのね"とか"なんか怒ってるなぁ"と認識するものの、どこか自分自身とは切り離して捉えており、"あるがままの自分(走りたい、遊びたい、しゃべりたい欲など)を自分の中に存在させられている状態"なんだと思う。私はその"あるがままの自分に無理せず居られる"という感覚を、先日のセラピーで初めて体感した。

学校では"ちゃんと"良しとされる行いで過ごしてきた。中学ではクラス全員からイジメられている子がいたのでそれを担任に密告した。またオシャレに興味が芽生えてもどこか悪いことのように感じ、大人の目が気になり手が出せず真面目に生活してきた。テスト結果は親へ見せることになったいた。

高校ではアホみたいな厳しい校則をことごとく守り、自習の時間にクラスがどんなに騒がしくても自分はおしゃべりをせず、私語を慎み、怒られまいと過ごしていた。先生から好かれるような生徒になることが良いと思っていた。

どこか我慢し窮屈で固定されたような感覚だったけれども、その行いをすることで安心安全に居られた。"正しい"とされることを信じやっていた。私は何も悪くないし、むしろ良い子だよね、褒められる存在だよね、と言い聞かせてきた。
 
ところが社会に出たら、全くそうじゃなかった。

おしゃべりしようが、やることを"ちゃんと"やってなくても、他者と仲良くやれてる人、楽しそうにやってる人がいっぱいいた。羨ましかったし、不思議でもあったし、なんで?と感じていた。
私は正しいことをやってるはずなのに、ぽつん感や苦しさがあった。居づらさもあった。

なんでこんな思いしないといけないの?ちゃんとやってるのに…と思った。(自分目線、ちゃんとやってない人が会社には沢山いるように見えた。でもその"ちゃんと"ってあくまで私に染み込んでいる常識でしかないのだ)

社会でもちゃんとやってるのに。。     

↑これが今に繋がっていたのだ。

"怒られるのがこわい、良くないことをしてるって思われるのが嫌"そんな気持ちが30代を過ぎてもとれていなかったと気付いた…💦恥ずかしながら。

大人の指示には従うもんだ、学校いったら先生には従うもんだという思考が、私の神経に根付いてる。(生きる上で何よりも最優先事項!!として)

__先生や親にとって良くないことはしちゃいけない→注意されたり怒られるから→親に怒られたり自分の存在が否定されたりして、心がぐちゃぐちゃに潰されるから→その事に怯えているから。_という土台が私の中で強くある以上、他人に対しても自分に対しても"正しさ"第一主義になってしまい、苦しくなっていた。

子どもながらに本来もっていた心(あるがままの自由な自分の意思)とは別に、頭で大人の指示に従い、それが"善"だと生きてきた。つまり心と頭と身体が繋がっていなかったのだ。

頭と心と身体が繋がったら、自由に自分を生き、心身の不調がなくなる。。


他人の人生は他人がコントロールするもの。
自分の人生は自分でコントロールするもの。

ここを落とし込むためには、子どもの頃からいかにトライしてきたかにかかってくるのだろう。

子どもが自分で選択する(失敗につながったとしても、命に関わること以外なら🙆‍♀️)実感や過程・結果を得られる体験をしてきたかどうかが重要なのだろう。

"自分でコントロールできる・してる"時、一番神経が安心安全な状態でいられるらしい。
幼少期からそれをサポートしてもらい肯定してもらえることで"自立"ができてくるらしい。

親に指示されて育ったら、それはコントロールされちゃってる状態。教師の言うことを良く聞く子どもは、いい子であろうと意識しちゃってる訳で、怒られたくないし良く見られたい…と悪く思われるとことに怯えているのだ。相手がどう見るかというところで大人にコントロールされちゃってる、委ねちゃってる状態らしい。

自立できず、頭と心(誰にも侵食されないあるがままのスペース)は繋がりにくくなる。(連動しない)   そうなると、「あたしは言うこと聞いてるのに、あんたは聞いてないじゃない」と思考してしまう。という先生の見解を聴いて、私は深く納得した。

なので子どもが自分で自立するためには、自分で自分をコントロールできると感じられることがなにより大事。親が指示命令でコントロールしようとすればするほど自立から遠のき、依存になってしまう。

対人関係がこじれるのは、自分の"正しさ"を、自分にも相手にも押し付けて考えているから。自分の思うようにいかない現実を心で処理できず、他人をコントロールしようとしてしまうから。

自分と相手とを、切り離して捉えることが出来ない環境で成長した結果だと分かった。

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セラピーを受けはじめてから私は、"あるがままの自分に無理せずいられる感覚"を初めて体感した。

そのイメージはうすい黄色の細長い花瓶が、私の中に徐々に広がっていくようなものだった。

だれにも侵食されない、"自分だけのあるがままのスペース"が私にも他人にもある。持っていてもそこに気付ける人もいれば、気付けない人もいるだろう。これまで無かった人もいるだろう。

私はこの感覚をイメージできたことで、他人の行動により、自分のスペースがそこまで侵食されなかったら、変に動揺したり、これまでみたくは揺るがない様に感じた。自分で自分のスペースを守れている気がした。
そして、頭と心と身体が繋がっているような感覚があった。
だれかおしゃべりしてても、そこまで深く侵食されない。他人がしゃべってるだけ。

人は人、自分は自分という感覚がしたのだ。

恥ずかしくもない、可哀想でもない、いたたまれない気持ちにもならない。

誰かになにをされようが、他人が何をしてようが、「あの人何かやってるなー」「あの人何か言ってるなー」くらいにとどめておける気がする。_________

以上です。長くまとまりのない文章になってしまいました💦

読んでいただき、ありがとうございます。


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