文体の舵をとる─ 『文体の舵をとれ』第六章+お知らせ
●問題 人称と時制
●パターン1 三人称・現在時制
笹本雪枝が半世紀振りにランニングを始めたのは、医者の一言がきっかけだった。
(健康長寿のためですから)
命を盾に取られては、大人しく従うしかなかった。
静かな秋晴れの日。焦茶色に立ち枯れた蓮にも目をくれず、彼女は不忍池を走っていた。鼓動と汗が身体を伝った。皺枯れた額を拭うと、白髪が手の甲にへばりついた。寿命まで抜け落ちたような気がして、彼女は少し眉を下げた。
「雪枝さん、前島雪枝さん」
声に向けて振り返ると、隣に若い女性が並走していた。溌剌とした表情が眩しかった。
「はい」
駆け足のまま応えた。今は笹本です……と付け加えようとしたが、余計な一言だ、と思い止まった。
「やっぱり!まさか、本物の魔女に会えるなんて」
そう呼ばれるのも、半世紀振りの出来事だった。
笹本雪枝──旧姓:前島雪枝。かつて、彼女は魔女と呼ばれていた。ほんの一瞬だけ。
─
風が吹き荒ぶコートを、大歓声が包んでいた。
女子世界王者とのエキシビジョンマッチで勝利を収めた彼女へ、盛大な祝福が贈られる。木製のラケットを高く天に掲げ、彼女は声援に応えた。
1960年代。第一次テニスブームが落ち着いた頃に、彼女は颯爽と現れた。炎のような気迫。水の如くしなやかな動き。雷を思わせるストローク。そして、風を味方に付ける強運……。そんな彼女を、メディアは“魔女”と持て囃した。
彼女が表舞台から姿を消したのは、その試合の直後だった。
─
「よく知ってるのね」
外見は老いさらばえ、業界との縁も絶えた自分は、とうに忘れ去られた存在。彼女はそう思っていた。
「あの試合、見てましたから」
見ていた?中継のマスターテープは上書きされたはず。一般家庭の録画映像が偶然残っていたのだろうか?驚きと困惑が、彼女の心を突いた。
続いて放たれた一言は、そんな彼女を更に驚愕させるものだった。
「同じ風を浴びてるんですよ、あの日から」
再び、心に風が吹いた。
●パターン2 一人称・時制①
私が半世紀振りにランニングを始めたきっかけは、医者の一言だった。
(健康長寿のためですから)
命を盾に取られては、大人しく従うしかない。
静かな秋晴れの日。焦茶色に立ち枯れた蓮にも目をくれず、私は不忍池を走る。鼓動と汗が身体を伝う。皺枯れた額を拭うと、白髪が手の甲にへばりつく。寿命まで抜け落ちた気がして、少し気が滅入る。
「雪枝さん、前島雪枝さん」
声に向けて振り返ると、隣に若い女性が走っている。溌剌とした表情が眩しい。
「はい」
駆け足のまま応える。今は笹本です……と付け加えようとしたけれど、余計な一言だ、と思い止まる。
「やっぱり!まさか、本物の魔女に会えるなんて」
そう呼ばれるのも、半世紀振りの出来事になる。
かつて、私は魔女と呼ばれていた。ほんの一瞬だけ。
─
風が吹き荒コートを、大歓声が包んでいた。
女子世界王者とのエキシビジョンマッチ。勝利への祝福。木製のラケットを高く天に掲げて、私は声援に応えた。
1960年代。第一次テニスブームが落ち着いた頃、私はコートに立っていた。
炎のような気迫。水の如くしなやかな動き。雷を思わせるストローク。そして、風を味方に付ける強運……。メディアはそのように私を評し、やがて“魔女”と持て囃した。
私が表舞台から去ったのは、その直後だった。
─
「よく知ってるのね」
外見は老いさらばえ、業界との縁も絶えた私は、とうに忘れ去られた存在。そう思っていた。
「あの試合、見てましたから」
見ていた?中継のマスターテープは上書きされたはず。一般家庭の録画映像が偶然残っていたのだろうか?驚きと困惑が、私の心を突く。
続く一言は、私を更に驚愕させる。
「同じ風を浴びてるんですよ、あの日から」
私の心に、再び風が吹く。
●振り返り+お知らせ
当然ながら、三人称→一人称への変換は、「彼女」を「私」に変えれば済むものではない。例えば「彼女は颯爽と現れた」を「私は颯爽と現れた」にすげ替えたら、大概の場合、性格的な違和感が発生するだろう。
また、一人称で書く際は、キャラクターのボキャブラリーに相当気を遣わなくてはならない。それにはキャラクターへの解像度の高さ(この用例は正しいのか?“理解度”と言うべきか?)が必要不可欠となるだろう。俺はキャラクターを考えるのが苦手なので、どうにか上手くなりたいものだ。
……加えてお知らせです。
先日「俺 VS 5年前の俺」で述べた新作ですが、その後無事に進みました。現在99%書き終えており、最後の校正中です。投稿までもう少々お待ち下さい。