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随感録 (A. ショーペンハウアー)

 ショウペンハウエルの著作は、以前、「読書について」「知性について」あたりを読んだことがあるのですが、本書はショウペンハウエルのいくつもの随筆を採録したのものです。

 まずは、初章「判断、批評、喝采ならびに名声について」から、いかにもショウペンハウエルらしい語り口の一節です。

(p10より引用) 精神的功績にとって不都合なことは、自分はつまらぬものしか生みだせないような連中が、その美点をほめてくれるまで待たねばならぬということだ。・・・カントの厳粛な哲学は、フィヒテのあからさまなほら、シェリングの折衷主義、ヤコービのいやらしいほど甘ったるい神がかったおしゃべりに押しのけられ、ついにはまったく憐れむべき山師のヘーゲルまでが、カントと同列に、いなカント以上に持ちあげられるしまつになったのだ。・・・

 ショウペンハウエルに言わせると、カントは偉人・哲人であり、ヘーゲルは似非哲学者となります。
 優れた先人の後に登場する数多くの模倣者を持て囃す「大衆の評価眼」への批判であり、さらに、この主張は、同時代の傑出した業績をその時期に見出せない「大衆の判断力の無さ」の指摘に繋がっていきます。

(p16より引用) こうした嘆かわしい判断力の欠如は、どの世紀においても、まえの時代のすぐれた者は尊敬を受けるが、自分の時代に傑出している者は見誤られるということにも示されている。・・・自分自身の時代にあらわれてきた真の功績を認めることが大衆にとって非常にむずかしいということを証明するのは、だいたいとうの昔に承認されているような天才の仕事にしても、大衆は権威にもとづいて尊敬はするものの、理解することも享受することもできず、ほんとうに評価する力をもっていないという事実である。

 続いて、第三章「自分で考えること」から、定番の「読書」についてのショウペンハウエル節です。

(p67より引用) 読書とは、自分の頭でなく、他人の頭で考えることだ。たえず本ばかり読んでいれば、他人の思想が強烈に流れこんでくる。ところで自分で考えることにとって、これほど有害なことはない。

 この点は「読書について」でも声高に指摘されていたことで、私も常に心しなくてはならないと自戒しているところです。
 そして、さらに、こう続けます。

(p70より引用) だからこそ読みすぎてはいけないのである。なぜなら、精神が代用品に慣れて、考えること自体を忘れては話にならないからだ。・・・いちばんいけないのは、本を読むことに気をとられて現実の世界を見落とすことだ。というのは、現実を見ることは、読書などと比較にならぬくらい、自分で考える機縁と気分とを与えてくれるからだ。具象的に実在するものは根源的な力をもっていて、思索する精神にとって自然な対象であり、きわめてたやすく精神を深くかきたてることができるのである。

 「現実に拠ること」「自分の頭で考えること」、これらが重要であることは極めて当然なのですが、実社会においては、それらを忘れた「似非」なるものが「真実」のものを駆逐することもある、そういう不満がショウペンハウエルの著作には通底しているように思います。

 ショウペンハウエルの言葉は辛辣でシニカルなものという印象がありますが、必ずしもそうではありません。特定の思想・人物には厳しい口調であっても、当然の示唆の語りはとても論理的で分かり易いものです。
 たとえば、第五章「読書と書物について」の中のこういうフレーズです。

(p167より引用) 「反復は学問の母である」と言われる。すべて重要な書物は何によらず、すぐ二度読むべきだ。それは、二度目にはその問題の関連がいっそうよく把握されるし、おしまいの結論がわかっているため最初の部分がいよいよ正しく理解できるからである。さらにまた、二度目にはどの個所に対しても最初の時とは違った気分で臨むことになるから、印象も違ってきて、同じ対象を違った照明で見るようなぐあいになるからだ。

 また、第九章「教育について」では、子供の教育方法・順序についてこう諭しています。

(p273より引用) 一般に子供たちが人生を知るにあたっては、どういう点についても、原典よりさきに写しから知るようなことになってはいけない。・・・とりわけ注意すべきことは、現実を純粋に把握するように彼らを導いてやること、その概念をつねに現実の世界から直接汲みとり、現実に従って概念をつくりあげるような心構えをもたせることである。

 概念が先だと、それが先入見になって他人の尺度で物事を考えるようになってしまうとの指摘です。
 「読書」に対する否定的な見方とともに、ショウペンハウエルの「自らの頭で考える姿勢」へのこだわりが顕示された主張ですね。



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