いつまで辛いと言い続けると

今でも朝は弱い。
仕事も遊びも関係なく、朝起きるのが苦手。

今でも遅刻や寝坊はしてしまうから油断せずに必死で起きている。

そういう朝寝坊や遅刻だけの話では無く、何かの失敗、ミスで、誰かに怒られる時。謝罪しなければならない側の人間は、何に対しいて意見、言い分(言い訳)を並べるのだろうか考えた。

自分が何かの間違っているのか。

失敗やミスがあった時、遅刻や寝坊、忘れていたことがあった時。
その時に僕の中にあるのは
「怒られる」
「ごめんなさい」
「どうしよう」
「すみません」

そして毎回
「だって」
「でも」
が入り、自分は悪くないという言い分を言っていると思う。

「けど」「違うし」
と、自分はそこまで間違っていない、悪くないと言う。言いたがる。

ここでの問題は、相手がなぜ怒っているのか、だ。

相手が怒っている理由を考えれば、何が問題で、自分がするべき次の言動が変わってくると思う。

遅刻した事で失った信頼は、その仕事中に、仕事を完了させるために必死で努力する事しか取り戻せない。

ただ、それが分からない、見えない人もいる。

次に遅刻や忘れない為にどうするか、それを実行するしかない。

そこに理由や反論はいらない。

何故かと言うと、理由や反論があっても、その仕事は成り立たない。
理由があれば、反論すれば、何かをすれば問題が解決するならすればいい。

その解決する方法が、仕事を完了させる。成り立たせることだ。

けれど、アルバイトや一兵卒のような仕事しかしていなければ、何をもって仕事が完了できた、成立したと言うのか、それが理解できない。

結局は、ガキの使い。

子供や学生、日雇いのアルバイトや作業員の様に、責任を負わない。
その場限りで、その場だけの仕事しか出来ない。

それは言われたことが出来ない、と同じだ。

そして、言われたことが出来ない(言われた事すら出来ていない)。

約束や責任を果たせないという事が、どういう事実を遺すのか。
そこまで考える力が持てない。

最近はそういう人たちが、自分の問題を発達障害という言葉で正当化させ、免罪符のようにその言葉が乱用されている事。

僕はもうそこまで嫌悪しなくなっている。

他人が生きようが死のうが、関係ない。

話を戻す。

自分の問題で仕事ができない。目的のための予定が狂ってくる。
だから怒られる、注意される、そこが正しく見えていない。

問題が起きているのは、自分が起こしたミスや問題で生じた問題に対して自分が出来る事で問題が起きている況少を修正や改善しなければならない。

そこで
「なんで」
と、物事が理解出来ていない人は、言い出す。

自分が何をしているのか、全く見えていないのだ。

問題が起きている事とは、そこにいる人間、問題を起こした人間、問題から被害や影響を受けた人間たちが、その事(物事)について、理解出来ていない、無知だから、その問題が起きた(起きている)のだ。

どんな些細な事でも、起きている事が、正しいと思えない事のその理由や原因は。

その場にいる全員の無知、至らない人間性(力)が招いている事だと思う。それが原因(起因)だと、僕は思う。

わかっていても、言わない人にも一因はあるし、わかっていない人が後から文句を言っても、その人は何も悪くは無いとは言い切れない。

この責任の擦り付け合いは不毛な議論になるけど、人間だから、責任の所在や追及をする。人間だから仕方が無いし、当然の事だと僕は思う。

話が脱線している気がするから、ここで再度同じような事を言って、話を元に戻して、前に進める。

だから、人に恨まれたり殺されるようなことが無ければ良いと思う。

何度も言う。

僕も、自分が解かっていない、気が付いていない事がある。

見逃されているのかもしれないし、今も僕を殺したいくらい憎んでいる人がいるかもしれない。僕は本当にそこまで言われたり思われるほどの事はしていないと正直に想っているけど、僕が恩人と言っている人の中には、僕の事をそうは思っていない人がいると思う。

この部分はやっぱり大事な感覚だと思っている。

話を戻す。

子供は怒られる事が問題としか考えられない。

怒られたことが問題としか、捉えられない。

例えば遅刻。遅刻は、遅刻したことが悪いから怒られる、と考える。

それは遅刻によって、相手やその仕事現場の予定を狂わせた事、約束を破った事で、その仕事が成立しいなくなっている事が問題であると考えられていない。

約束を守れない事の何が問題なのかが見えない。

仕事で例えるなら、仕事が誰かのミスや問題で成立できなくなる。

それの何がそこまで悪く言われなければならないのかが分からない理由は、自分がその責任を背負う側に立った事(経験)が無いからだ。

相手の立場や、その事について自分が同じ立場や状況に身を置かなければ理解する事は難しい。

何が問題で、自分や自分達が何をしなければならないのか、それが理解できるようにならなければ人間としては未熟。

理解出来ていない事が、至らない人間。足りない人間だと僕は思う。

だから未熟な人間、成長しない人間は、年齢ではない。

・・

・・

成長が出来てない人間は、面倒だの、疲れただのと、嫌な事に対して「しない理由」を挙げる。そういう人は、それをしなくても生きていけるからそれで良いのだ。そう思い込むしか選択肢を持っていない人間。

「言い訳のように聞こえるかもしれない」理由を言い、それで生きていける人間の答えだ。

ちなみに、自分がしたくない理由、それは「自分軸」ではない。

ただの言い訳だ。

それで問題が起きた事が事実であり、問題なのだ。

人間、物事に絶対の正解や、10:0の話は少ない。
どんな事にも、10:0の判断は出来ない。何度も何度も言う。

何度も言う事は自分にも当てはまる事なのだと思っている。
その事について今は忘れたくない、あるいは忘れてはいけない事だと自分の思っているから、繰り返すという事実だと思っている。

そして、人間。

(人間)社会という上、すべての事に、責任を負う。

良い事も、悪い事も、些細な日常の出来事、すべてに責任や役割、影響がある。

そこに関係しない事、影響を受ける範囲(テリトリー)でなければ、関係が無い、と言い切ってもいい。当然、自分に関係が無いという事は、他人事だ。

我がごとならば全力で必死になる事でも、他人事ならば関係はない。
だから何度も何度も言うけど、我が事と他人事、この部分が分かれ目。

そして自分の立場や相手の立場になって考えられない、理解できない原因は、未経験ないし未成長だからだと僕は言い続ける。

未経験がゆえに理解できない人間を、未成長、未成熟な人間と言っている。

・・

人間は死ぬまで、いくつまで生きられるか分からないけれど、今の僕のこの意思が死なない限り、僕は成長を止めたくない。

・・

今ここで僕の親戚の話で、過去の日記を引用してまで丁寧に説明はしないが、無知が故の事が人間にはほとんどだと思う。

ある人が、自分の子供に大けがをさせてしまった過去について、どれだけ言葉を並べても、なぜそれが起きてしまったのかと言えば

「その時は解らなかった」
「そんな事は知らなかったのよ」

と言うだけだ。言うしか選択肢が無い。

ただ、その時に、その人はその人なりの最大限の最善を尽くしたのだろう。けれど、それが間違いであれば、人が死んでしまう事もある。

それでも生きていく。それでも、それでも、仕方が無いと言えない事も、誰にも言えない事、事実も、自分から見た視点の事実も含め、そのそれらを抱えて生きていくしかない。

そしてまた、それにすら、その事にすら、気が付かずに生きている人間も事も事実。誰もそれを「悪い」とは直接、表立っては言わない。

自分と関係ないから言わないだけだと思う。

それが安心や安定、幸せを実感できる人間の生き方の一つだと、僕は、今ならよくよく解っている。

・・

・・

ネットやメディアを見ていると、よくある話だけど「未婚、未成年の結婚や出産」が話題になって炎上していた。

「考えが甘い」「世の中を舐めてる」など言葉が溢れていた。

確かに他人から見ると、大勢の他人から見られれて、何か言われてしまう部分はあるとは思う。

けれど、それは誰しもあり得る事。

金の使い方なんて、いくつ(何歳)だろうが人それぞれ。

その人の都合や事情で、補助や支援、生活保護や手帳などを受けながら生活している人もいれば、金を稼いで自分の生活や人生を全うしようとしている人もいる。

だから、それを実行できているのかと考えると、心がモヤモヤするけど。

僕だって、つい、と言いながら、ネットの記事や何かにコメントした事が、人生で一度も無いのかと問われたら、絶対に無い、とは言えない。

けど、けど、けど、と。

こうして書いている日記が、悪口やその類になっているだろう、と言っている自分がいるから一言では言えないよね。

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・・

「あの○○が、○○だって」
「えー、うそうそうそ」

そんな会話が聞こえてきた。
年齢は親の世代。職業はバラバラ。

自分もそういう会話をしているんだろうな、と思いながら、でも、その人たちの会話に嫌悪した。

人の肩書や名称で、その人の人間としての価値や証明になると思う人間は嫌いだ。最後の最期までその役職や名前を出して、話題にする。

物事に対するモノサシが、肩書や名称で考えて計る人は嫌いだ。

人が見せる、他人が見せているその面なんてものは、ただのその人が見せたい自分像の一面でしかない。

芸能人も、あの有名人も、糞尿は排泄する。
白目を剥いている時もある。
泣いて詫びて汗水汚物たらしている時もある。

無様、滑稽、醜い姿、格好の時もある。

だから他人が見せている綺麗な姿や言動が其の人ではない。

当たり前の事。でも、他の当たり前の事は見えていない。

ここがややこしい所。

当たり前の事。当たり前の事を当たり前の事と言っても、その事とは違う事で当たり前の事が分っていない、出来ていないと言うのも人間なのだ。

外から見て(他人から見て)、その人が思い描いているように見せられているのかは別問題。

けれど、結局は、他人なんて所詮はその程度の事で、比べ、共存してる。

大学名をみて

「○○大学卒の人だから」

と言い、その人間の人間性や評価、判断を見誤る。

結婚していれば一人前。

○○になれば一生安泰。

あの人は○○だから。

だから何だ。

東大卒だろうが有名企業に勤めていようが、そこにいる人間が正しく全うに生きているなんて事はない。
そんな事を未だに思い込んでいる人間は盲目無知な人間。

餓鬼や老害と同じ視点の狭さ。

経験から成長していない人間が陥る罠。

・・

・・

前回の日記の親の欲という部分をまとめると。

僕の親は「私をみて」と叫び、その押し付けで相手から自分を承認させる事、認めさせようとする、そこで自分の欲を満たしている。

存在意義、承認欲求、自己顕示欲。

報酬が自分で他人に押し付けることで自己完結している。だから他人が、それを受けてどうなるのか、それが考えられていない。見えていない。

認められないと癇癪を起こしていた若い頃との違いは、年老いただけ、だ。



自分が出来る事は他人も出来る、という思い込みは間違いだ。

それくらいは、よく言われていると思う。

誰だって言われたら「それくらい解っているわ」と言い返すけれど、わかっていないから、みんな繰り返す。

その時は解って考えられた人でも、次、別のところでは見失っている時もある。

自分が知ってる、自分がしてる事が普通。

自分が、自分たちが、普通の、一般的な社会の、世の中の正解とは言わなくても、自分は間違ってはいない、どこまでいっても自分は普通であると疑う事がなさ過ぎなのだと僕は思う。

最低でも、自分の事を
「自分は、普通」
と思い込む。

それが酷い。
だから問題が起きても、次、また同じ事を繰り返しているのだと思う。

物事の本質や正解と聞くと、そこにすべての問題や自分が今悩んでいる事を解決しいてくれるような回答があるように気になる。

けれど、物事に一つの絶対的な回答がある訳がない。

ただ問題が起きた時。悪い事が起きた時に、それをどうやって解決に向かうか、それが人間の能力であり、それをどれだけ経験や知恵で乗り越えられるのかが人間としての力や人間性を問われる部分だと思う。

解決とは、自分に都合がいい結果に繋げる事ではない。

自分が納得できる最大で最高の結末や話の着地をさせる事では無い。

折り合いや妥協点というと、未熟児は「嫌だ」と叫ぶだろう。
それでも社会、人間は生きて、群像し、回り。そして成り立つ。

そこで躓き転んで立ち止まっていると、その人は、そこで成長も変化も起こせず、起こさずにそこから落ちていく。

堕落していくと言い切っても良いと、今の僕は思えるようになっている。

ここで「自分で自分の機嫌が取れない」と言うのは間違いだ。

他人に迷惑や被害を与えておいて、自分は好き勝手に、相手に対して、自分の事は自分でなどと「自分軸」を歌っている生き物は別の問題だ。

今日の日記の、いつもの悪い言葉、一個目。

自分の好きなように勝手に言葉並べてろ。

いつか必ず、自分が望まない形で死ね。
地獄の絶望を味わいながら、その後を遺して死ね。

・・

・・

死にゆく人に、「そんな事をしているからそうなる」と言う人は。

自分がしている事は良くて。
自分が好きでしている事には都合が良くて、他人の事なら、そこで自分を指される事はないと思い込み、偉そうにモノを言い出す。

自分は安全な位置から、石を投げる。

自分には甘く、他人には厳しい。
自分が共感する事には盲信的に賛同している。

それは自分の人間としての負い目。

劣等感やコンプレックス、後悔、執着、依存。それら、その人が抱えている、言わない、言えない、言いたくないその人の部分が影響している。

その部分が、その人の言動、主義主張(思想)に表れているのだと思う。

他人の不幸は蜜の味。
他人を非難、否定。
誰かの何か悪い事を言わなければ自分を保てない人。
他人の噂や戯言の類が、特に好きな人、も同じ。

僕は、

人間が好き勝手、他人ごとに無責任に、適当な事をいう人、そういう生物を好まない。

好まないなら相手にしない、それが僕が今見えている大人。
社会人として身に付ける力の一つだと思う。

それが今日も忘れていない、一ページ。

・・

・・

ブロックした人からメッセージが届いていた。

内容について書かない。当たり前の事。

でも内容は丁寧というのか、心のこもった言葉だと思うのが普通の感覚だと僕は思う。

けれど、僕の本心は違う。

この手の人間の、この手の言葉は信用する価値も意味もない事を、僕は知っている。

あいつらも、何度も何度も死ぬ程同じ事をしていた。
あいつらと言うけど、でも。

人間はそういうものだと思う。


あの時、自分でもよく言っていた。

「他人は一生忘れない、という事でも平気で忘れる。
この恩は一生忘れないと言って、金が手に入ったら簡単に忘れる」

自分に都合がいい美談にすり替える。

誰が死んだって、金が入ったら三日もあればある程度忘れて自分の生活とは関係が無くなる。

それが諸行無常な人間の営み。
生活の実像だと思う。僕も同じようなものだと戒める。

・・

・・

独り言録音ではなく、友達にあてたメッセージを録音していた時。

相手の名前(あだ名)が、実はその先日ブロックした人とほぼ同じ(似ている)事に気が付いた。

だから喋って録音している時、自分が

「〇さんは ~ 」

と話している時、相手の呼び名が、その〇と似ている事に気が付いて、相手はそれを自分の事だとは思わない(誤解しない)だろうかと心配した。

さすがにそれは考え過ぎな気もするが、最終的に

「これは良くないな」

と僕は総合して判断した。

大したことでも相手からしてもどうでもいいような事かもしれない。
けど、そこを考えてしまうのが僕の癖や人間性だ。

ただ、内容的に、相手にその話題や内容を伝える必要が本当にあるのか、何度も、本当にあるのかと考えた。

この名前の部分の話題も含め、この内容は伝えなければならない事では無いと僕は判断できた。

言いたい、伝えたい、解って欲しい。

そんな感情や人間の欲など、後から良い事になった事はない。

ないかどうか判らなくても、ロクな事にならなかった事は覚えている。

だから僕は言わないように、しないような人間になりたい。

でも、それも都合よく解釈している自分は忘れない。

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