西原そめ子

西原そめ子

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「三十一文(みそひとも)字(じ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅴ.カナダ紀行(2002.3.3~6)

・バンクーバー~カルガリー(2002.3.3) ○成田よりバンクーバーまで7時間エアーカナダの機中にくつろぐ ○ゆったりの大きめシートに空席も其処ここに見ゆ快適な機内 ○メイプルのリーフブローチ シルバーのタイピンを買う機内のつれづれ ○春さむのバンクーバーに降り立つもすぐに乗り換えカルガリーへ ○カナデアンロッキー山麓カルガリーは冬季オリンピックでその名知るのみ ○氷雨降るオリンピックの競技場をバスは一周バンフへ向かう ・バンフ(2002.3.4) ○ロッキーの山懐に抱か

    • 「三十一文(みそひとも)字(じ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅳ.東欧紀行(2001.12.3~11)

      ・成田~ドゴール空港(2001.12.3.~4) ○午後の陽を浴びて福岡を出て来しに成田を発つは夜更けの10時 ○成田発ち12時間の空の旅 朝星瞬くパリ・ドゴール空港に着く ○免税店すべて灯を消す空港のコーヒーショップで時を遺るパリ ○寝不足と疲れで食欲おきぬ胃にホットコーヒー沁み渡りゆく ○待ちに待ち6時間過ぎようやくにプラハに向けてパリを発ちたり ・プラハ(2001.12.4) ○パリ発ちて1時間半チェコ プラハ ルズイニエ空港に着く正午 ○唯一とうチェコの国際空港は寂

      • 「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」 Ⅳ.東欧紀行(2001.12.3~11)

        ・成田~ドゴール空港(2001.12.3.~4) ○午後の陽を浴びて福岡を出て来しに成田を発つは夜更けの10時 ○成田発ち12時間の空の旅 朝星瞬くパリ・ドゴール空港に着く ○免税店すべて灯を消す空港のコーヒーショップで時を遺るパリ ○寝不足と疲れで食欲おきぬ胃にホットコーヒー沁み渡りゆく ○待ちに待ち6時間過ぎようやくにプラハに向けてパリを発ちたり ・プラハ(2001.12.4) ○パリ発ちて1時間半チェコ プラハ ルズイニエ空港に着く正午 ○唯一とうチェコの国際空港は寂れ

        • 「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅲ.スペイン・ポルトガル紀行(2004/2)

          ・シベリヤ(2004.2.6) ○機窓より見下ろす白きシベリヤに黒く蛇行すレナ河ひとつ ○シベリヤは先の戦で父、叔父が捕虜の辛酸なめし処ぞ ○今もなお白き大地の下に眠る抑留兵らの御霊安かれ ○シベリヤの上空飛ぶとき哀悼の思い込み上げいつも合掌 ○常の日は忘れ果ているメロデイと歌詞甦る「異国の丘」の ・ヒースロー( 〃 ) ○成田より13時間の空の旅ヒースロー空港に着く6年ぶりに ○空港の整備と充実いっそうに進みしごと見ゆヒースローは ○知り人の声聞きたしと久々に電話かけるも叶

        • 「三十一文(みそひとも)字(じ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅴ.カナダ紀行(2002.3.3~6)

        • 「三十一文(みそひとも)字(じ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅳ.東欧紀行(2001.12.3~11)

        • 「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」 Ⅳ.東欧紀行(2001.12.3~11)

        • 「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅲ.スペイン・ポルトガル紀行(2004/2)

          「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅱ.イタリア紀行(2000/2)

          2.イタリア紀行(2000/2)  私が初めてイタリアに出かけたのは昭46,「欧州消費者活動視察団」(6ヶ国、4週間)に参加、もう50年以上も昔になる。その時はローマのFAO訪問が主目的、その翌日だったか日帰りでナポリとポンペイを観光した。今でも忘れ難いことは、当時の日本にはまだなかった高速道「太陽道路」を走った時、一番驚いたのはスピードが下限100km、つまりスピードが100km以上で走らなければならぬということだった。上限速度40とか60キロ位しか知らぬ日本人の私には大き

          「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」Ⅱ.イタリア紀行(2000/2)

          「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」 Ⅰ.イギリス紀行(1998.8)

          Ⅰ.イギリス紀行(1998/8) 夏休みに2週間ほどイギリス旅行をした。ロンドン大学の夏季セミナーに参加する娘の終講を待って私も渡英、イギリス4回目の娘に全てを委ねブリテン島を一周した。スーツケースを引っ張りながら。 これはその旅行記である。   『ロンドン』(1198・8/3~12) ○成田発ち13時間の空の旅ようやく降り立つヒースロー空港   ○小雨降るロンドンの街行く人はジャケット多し8月なるに   ○大時計塔 議事堂 ウエストミンスター(アベイ)寺院にテムズ川、シン

          「三十一文字(みそひともじ)(短歌)で綴る世界見て歩き」 Ⅰ.イギリス紀行(1998.8)

          小説「ザ女帝」 目次

          ざ女帝 目 次 1 出立 いざ娜大津へ 2 曾孫女王誕生と伊予滞在 3 熱田津の歌と額田王 4 舒明天皇の皇后から皇極女帝に 5 乙巳の変と退位、そして鎌足のこと 6 孝徳天皇の即位と大化の改新 7 葛城(後の天智天皇)、皇太子になる 8 重祚して斉明天皇に 9 孫たちのこと 10 娜大津での日々 11 豊璋との別れ 12 朝倉の仮御所へ 13 斉明天皇薨去と難波の殯 14 白村江の大敗と豊璋のその後 15 倭国の国防と遷都 16 天智天皇即位と発病そして薨去 17 男兄弟

          小説「ザ女帝」 目次

          小説「ザ女帝」 あとがき

           この書は私が生まれて初めて書いた小説です。小説の書き方の作法も知らぬ、全くズブの素人ですから小説もどきです。たまたま別件で資料を渉猟中に斉明女帝の「征西記」を知り、この女帝に興味を覚えて、書いてみたいと思ったことがきっかけでした。でも一字一句ゆるがせに出来ない論文はムリ、不明なところを想像・憶測でつなげられる小説なら書けるのでは、と思ったような次第です。  登場人物の四女帝が活躍したのは七世紀(飛鳥)から八世紀(天平)にかけての約百年間、名称も大王家から天皇家へ、国の組織

          小説「ザ女帝」 あとがき

          小説「ザ女帝」 (13)

          38 元明天皇の即位 (元明天皇の独白)大宝3年(703)1月、国でも我が家の中でも君臨していた姑の持統が数日の患いであっけなく崩御しました。1年間の殯のあと本人の意思で、我が国の皇族として初めて火葬され、遺骨を銀の壺[i]に入れて天武と同じ檜隈大内陵に合葬しました。これで一連の葬送行事は終わりました。天武に較べると簡略でした。  姑の持統は私と同じ天智の娘で異腹の姉です。私はこの姑に望まれて一歳年下の甥、草壁と結婚し、ずっと嫁として姑となった姉に仕えて来ました。勝ち気で

          小説「ザ女帝」 (13)

          小説「ザ女帝」 (12)

          35 大津よ ごめんなさい。 (持統天皇の独白)私は天皇になり、国の民を統治し人を使う立場になった。何と責任の重い仕事だろう。そしてしみじみ分かったことがある。人には夫々天性備わった器(うつわ)というか器量というか、身分では測れない能力差があることを初めて知った。上に立つ者は人間の器の大小を見極めて仕事を与えたり、補佐してもらうことが大事であることを初めて知った。そういう意味では父も夫も器の大きい人だった。だからあれほど多くの仕事が出来たのだ。  私は器の大きい二人にいつも守

          小説「ザ女帝」 (12)

          小説「ザ女帝」 (11)

          32 持統天皇の即位 (鵜野皇后の独白)或る日私は聞いてしまった重臣たちのヒソヒソ話を。私が朝議を終えて廊下に出ると、まだ朝堂に残る重臣たちの話し声が聞こえて来た。 「大王 いよいよ悪いようですナ」 「アトはどうなりますかナ」 「大津皇子さまが立って下さるのが一番いいけれど‥」 「皆で担ぎますか‥」  重臣たちは廊下で私が聞いているとも知らず‥、その後もいろいろとホンネを開陳していた。私はそっとその場を離れて自室に戻った。皆、天皇や私の前で話すときとはまるで別人だ

          小説「ザ女帝」 (11)

          小説「ザ女帝」 (10) Ⅳ 持統天皇

            27 大津・草壁二人の皇子の死  天武天皇崩御の翌月、まだ殯もまだ終わらぬ10月2日に、臣民を驚かす驚天動地の出来事が起きた。大津皇子が川島皇子の密告によって謀反の疑いを掛けられ捕えられて‥、やがて自栽した。刑死だったともいう。  この出来事は今は亡き天武天皇に心服する臣下や大津皇子を敬愛し、その即位を心密かに待望する人々を恐怖で震え上がらせた。謀反の疑いは鵜野皇后の差し金であることが明白だったから。  そんな不穏の空気ただよう中で、皇后はたびたび百官を列席させて、草壁を

          小説「ザ女帝」 (10) Ⅳ 持統天皇

          小説「ザ女帝」(9)

          24 天武天皇の外交と軍事政策 (独白は続く) 高句麗が滅亡した668年以後の新羅は次第に強まる唐の半島支配への恐怖から逃れるためか、次第に倭国である日本に誼を求めるようになり、我が国への亡命者も増え始めた。  我が国では推古朝までは新羅と若干の交流があったものの、その後は斉明天皇時代まで親百済一辺倒だった。しかし唐に百済と高句麗が滅亡させられ、新羅が唐の助力で半島を統一すると、我が国も天智天皇の晩年頃から徐々に新羅と交流するようになった。  こうした周辺の情勢の変化を踏まえ

          小説「ザ女帝」(9)

          小説「ザ女帝」 (8) 天武天皇即位

          21 天武天皇即位 (故斉明女帝の独白)アア、とうとうやってしまいましたネ。壮大なる兄弟喧嘩を‥。どこの家でも兄弟喧嘩は日常茶飯事です。子供は喧嘩をしながら育つものですが、壮年になった子供たちの兄弟げんかは修復が難しいです。もっと老年になればお互いにいろいろと人生経験も積み、人間も丸くなります‥、マァマァとそれなりに許し合えるのが普通ですが、これは庶民の家の話です。大王家ともなればそうはいきません。悪くすれは国を二分する争いに発展しますし、犠牲者が大勢出ます。  大海人が自分

          小説「ザ女帝」 (8) 天武天皇即位

          小説「ザ女帝」(7)   Ⅲ 天武天皇

          17 男兄弟 (大海人皇子の独白)私は大王家の一族に生まれたが、父が早く亡くなって母が再婚したので、私は女儒の里凡海氏の元で育った。大人たちは皇子とか皇子さんと呼んで一目置いてくれたが、子供同士はそんなこと関係なく遊びに喧嘩に興じて過ごした。私は年下の子はいつも庇い、年上の子の理不尽やいじめには率先して飛びかかって行った。年の割には体も大きく力もあったので、いつの間にか近隣のガキ大将になっていた。毎日子分を引き連れ、海に山に日暮れまで遊び呆け、楽しく過ごしていた。大人から叱

          小説「ザ女帝」(7)   Ⅲ 天武天皇

          小説「ザ女帝」(6)

          16 天皇即位と発病そして薨去 (天智天皇の独白は続く)翌年の天智7年(667)2月、私はようやく即位し天智天皇になった。大化元年(645)に孝徳天皇の皇太子に立って以来、早や二間る20年以上の歳月が流れていた。孝徳・斉明と2代の天皇に仕える長い皇太子時代だったが、後半の10数年、斉明天皇時代には高齢の母天皇に代って実質的にはずっと天皇の仕事をして来た。また、母の崩御後の7年間は称制ではあったが、全く天皇の気持ちで政に取り組んで来たから、即位したからと言って仕事や気持は何ら変

          小説「ザ女帝」(6)