小説「ザ女帝」 (12)
35 大津よ ごめんなさい。
(持統天皇の独白)私は天皇になり、国の民を統治し人を使う立場になった。何と責任の重い仕事だろう。そしてしみじみ分かったことがある。人には夫々天性備わった器(うつわ)というか器量というか、身分では測れない能力差があることを初めて知った。上に立つ者は人間の器の大小を見極めて仕事を与えたり、補佐してもらうことが大事であることを初めて知った。そういう意味では父も夫も器の大きい人だった。だからあれほど多くの仕事が出来たのだ。
私は器の大きい二人にいつも守られていて、それに気づかなかった。天皇と言う立場に立てば誰にでも出来るものと単純に思っていた。無知と言うか思い上がりと言うべきか、だから我が子草壁に執着し人間として器の大きい大津を死に追いやってしまった。今更ながら後悔しきりである。
私の前にも女帝が二人いた。推古天皇と祖母の皇極・斉明天皇である。今になると私はお二人が羨ましい。推古女帝は聖徳太子、祖母は天智と天武という、後に名君と言われるほど器が大きく有能な補佐官に恵まれていたから。お二人は補佐官に全面的に仕事を任せ、その上にただ乗っかっていた。特に私が知る祖母などは命令だけして実に長閑に過ごしていた。夫も大津を草壁のよき補佐官になるよう一生懸命に教育していたことを思い出す。大津の大きな器を十分に見抜いていたのだろう。
私も仕事を肩代わりしてくれる有能で立派な補佐官が切実に欲しい。此処に至ってようやく私は大津を死なせたことを心の底から後悔した。しかも謀反と言う不名誉極まる理由まででっち上げて‥、悪いことをしました。本当にごめんなさい。何と詫びていいのか‥申し訳ない‥。
アナタを死なせたあと、お祖母さまが夢に出て来て、私はそれはこっぴどく叱られましたヨ。大王家の宝を死なせた。お前は鬼か、これからお前は後継者で苦労するだろうヨとも言われました。全くその通りです。夫からもお祖母さまほど激しい言葉ではないが、怒りを抑えかねるように、何と言うことをしてくれた‥、とうめくように言って叱られました。
その頃の私はと言えば、不穏の動きを芽のうちに摘み取った満足感一杯で、祖母や父の言うことを充分に理解していなかった。今、自分が天皇になって、ようやく自分の愚かさに気づき、心底後悔している。遅すぎた。
私は永い間、悲しい思いをさせた大伯にも詫びたくなり、久しぶりに一緒に食事をしたいからと知らせを入れた。やって来た大伯は心を閉ざしているか、その表情は硬かった。
私は大津を死に追いやったことを心から詫びた。私はこれから、この子を娘と思って大事にしよう。そして私が、大津に詫びたいから一緒に二上山に詣でようと誘うと、驚いた顔ながら少し心を開いてくれたか、微かに笑顔を見せて墓参りの日を約束した。
そんな頃、太政大臣として私の政を支えてくれた高市皇子の病が篤くなった。温厚で長老の風格を備えた夫の総領息子はよく私を支えてくれました。次は自分かと私の心の裡を見透かすように、年若の皇子たちの私への阿り、擦り寄りなどが露骨になった。
悪いけれど、みな器が足りない。器の小さな人間を選んだり権限を与え過ぎると、必ず揉め事が起き犠牲者(死人)が出る。それはだけは避けたい。自分だってやって来たじゃないか、身勝手なことをたくさん、と言われるだろう。
よく分かっている。だからこそである。そんなさ中に太政大臣の高市皇子が薨去した。持統10年7月(696)でした。私はこの皇子を心の底から頼りにしていた。よく支えてくれましたネ。高市よ、本当に有難う。
36 文武天皇の即位
(持統天皇の独白)高市皇子の薨去は私にはとてもコタエました。誰かを後任に立てて欲しいと朝議に諮りました。ところが討議はそれよりも早く皇太子を決めるべき、と言う方向に流れて、群臣たちは皆それぞれ自分に都合のいいことを喧々諤々と言い合い議事が紛糾しました。その時、葛野王が発言しました。
「古来、我が国では親子間の皇位継承が行われている。やむを得ぬ場合は兄弟間の継承もあるが、大抵は紛糾が起き犠牲者が出る。ましてや相応しい能力がある者を選ぶ、などは一層の紛糾を招くだけだからするべきではない。
直系もしくはその中での長幼を考えると、皇継は自ずと決まるはずである。
傍系は避けるべきである。後は皇継者を皆で支えればよい」
と、この様に正論を吐いてくれました。そして、まだ何か言おうとする弓削皇子の発言を一喝して封じました。これで騒がしかった天武の皇子たちもおとなしくなりました。
葛野王は今は亡き大友皇子の忘れ形見です。壬申の乱の時は、まだ赤子に近い幼児でしたから死を免れました。私の甥でもあり、長じてから朝堂に入れました。書物に親しむ学者肌、字も詩歌もうまく、風貌も祖父の天智に似ています。考え方は剛直で、むしろ夫の天武や大津に似ています。最近の私は時おり葛野の中に大津の面影を重ね、懐かしむことがあります。子供の頃にはあれほど苛めた大津をですヨ。我ながら自分の所業が恥ずかしく、後悔しきりで、あきれています。
ともあれ、葛野王の発言のお陰で孫の軽皇子(後の文武天皇)の将来は安泰になりました。幼い孫に皇位を継がせたくて、頑張って来た私は大満足です。そろそろ孫も15歳になります。私も天皇の位にあることにいささか疲れて来ました。
朝議の半年後の翌年(697)2月に軽の立太子式を行ない、同8月に私は譲位、軽が即位し42代文武天皇になりました。生前譲位は私の祖母皇極に続く史上2人目です。しかし文武はまだ若いので、当分は私が太上大臣ならぬ太上天皇として後見することになり、年号も文武天皇元年(697)に変りました。
(文武天皇の独白)私は天武天皇12年(683)に天武の皇太子草壁と、天智の娘阿閉(後の元明天皇)の長男として生まれました。姉弟には上に姉の氷高(後の元正天皇)と妹の吉備がいる三人姉弟である。3歳で祖父を、6歳で父を亡くしたが、祖母が父の代わりに天皇(持統天皇)に立ち頑張ってくれて、私たちを護って下さった。
因みに祖母と母は2人とも天智の娘で、異腹の姉妹でもあります。こうして、私は祖母・母・姉妹という女系家族イヤ複雑に絡む女性天皇3人に皇女1人と、4人の女性に囲まれる中の一粒種の跡継ぎ男子として、それは大事に育てられた。そんな育ちの男に、頑健・剛毅などの男らしさを求められても無理な話である。
しかし天皇に立った以上は何らかの業績を残さなければならない。私もいろいろ調べた。祖母の命令で始めた改正法令集は、もうすぐ出来上がるらしいが、祖父の命令で始めた史書の編纂や祖母提案の歌集(注 万葉集)の編纂はまたまだ時間がかかり、完成はいつになるか分からないという。そんな時に祖母が助言してくれた。
「筑紫の国には唐の侵略に備えて曽祖父の天智や祖父の天武が心血を注いで造った水城と朝鮮式山城がいくつかあると聞く。また、国境の島の対馬から都までを烽火で結ぶ烽火台も作り、そこには防人と言う監視人を置いてあるという。
防人は何年かに一度交代して故郷に帰しているが、そろそろ交代期である。幸いにも唐は攻めて来ず、烽火台や水城や山城は使われることなく大きな幸いであった。しかし国を守る備えはいつもしておかなければならない。これらの施設は造って30年経つ。そろそろ点検や修復が必要だと思うから、お前の仕事にしたらどうだろうか。
それともう一つ、お前の曽祖父や祖父の母である斉明天皇は筑紫で崩御されました。そう、私を可愛がって下さった私の祖母です。お前の曽祖父の天智は自分の母親斉明天皇の追善のための寺をぜひ筑紫の地に造って上げたいと切望しておられましたが、公の仕事が忙し過ぎて私事は後回しになっていました。
お前の祖父天武にも母に当たる方で、思いは同じです。山城の修復と一緒に供養の寺を建てて上げたら、さぞ喜ばれるでしょう。私も嬉しい。」
祖母からよい助言をもらった。よし、その二つを当面の私の仕事にしよう。
また、祖母の話によると、父草壁は百済出兵の時の前線基地、娜大津で生まれ、幼児期はその筑紫で育ったという。山城建設の時は御所まで移していたという。そう、亡き父にも何よりの供養になる、筑紫にも都の大寺にも劣らぬ立派な寺を建てて上げよう。
私の決意を聞いた祖母はとても喜んでくれた。そして昔を思い出すように、遠い目をしながら毎日大勢の兵士が出入りして騒然としごった返していたワ。お魚がとても美味しい処だったとも言った。
育った都しか知らぬ私は祖母の話を聞いて、筑紫の国が懐かしいような気持になり、山城が修復された時か、寺が出来た時には、ぜひ筑紫に行ってみたいと思った。私の中にヤル気が起こり、ワクワクするような気持ちになった。
「お祖母さま、いい助言をありがとう」
37 山城修復と観世音寺
(文武天皇の独白)文武2年(698)、私が水城と大野城と基肄城と敵の来襲ルートの烽火台の修繕を命じていると、何ともう一つ同様の山城があるという。これは祖母も知らなかったらしい。
それは鞠智城と言い、大宰府から南その他に建物70数棟、他に貯水池や水門まで備えてあり、もしも大宰府政庁が敵に襲撃され占領された時には、逃げ込むための城、万一の時には籠城できる予備の城、として築城したのではないかと考えられる。私は祖父たちの深謀遠慮、用意周到な仕事ぶりに、唯ただ感心し敬服した。祖母にそれを言うと、
「お祖父さまたちはそういう人たちだったの」
と言う。天皇として見習わなければ、とは思うが‥とても叶わない。天皇と言う立場はそこまで広く深く考えて事に当たらなければならないのか‥。気が小さい私にはとても出来そうもない。自分に不安を覚え、天皇の地位の重さを噛みしめた。
大宝元年(701)にわが国初の体系的な法令集「大宝律令」がようやく完成、翌2年(702)公布された。この法令集は祖父天武天皇が定めた「飛鳥浄御原令」を改良し体系的にも充実させた法令集で、祖母の持統天皇時代に着手、数年がかりで完成させたものである。今後の我が国の政は此の書に明記された法に従って行うことになり、国の体制が定まり強固になった。
祖父たちが切望した斉明天皇追善の寺の建立は大宰府政庁の隣接地に格好の広さの土地があり、此処に都の大寺と同じ規模の立派な寺、観世音寺を建立することに決めた。私は梵鐘の鋳造と縁起書づくり(計画書)を急がせた。
大宝2年(702)に先ず梵鐘が出来上がると、祖母は「立派な梵鐘ですね。お祖父さまたちがどんなに喜んでくれるか‥、私も安堵しました。一日も早い開眼供養が待たれます。その時は筑紫に出かけて出席したいもの」
と、喜んでくれた。私もとても嬉しく完成が待たれた。その時は祖母も同道して一緒に筑紫国まで出かけ、ついでに私が修復を命じた国防のための、水城や山城なども見たいものと、期待に胸を膨らませた。
しかし二人の希望は実現しなかった。翌年の大宝3年(703)に祖母持統はとつぜん崩御した。その翌年の慶雲元年(704)に、待望の「観世音寺縁起書」は完成したが、その3年後の慶雲4年(707)に私も薨じて造営計画は頓挫した。
後のことになるが、造営が再開されたのは養老年間、姉元正天皇の時代である。養老5年(721)、朝廷の役人沙弥満誓が造立責任者、造観世音寺別当として赴任、造営が再開された。
境内は3町四方、七堂伽藍が整い都の大寺に遜色ない大寺院で、完成は天平18年(746)、さらに20数年を要した。この寺は西海道最大の古刹として21世紀まで存続していると聞く。発願者には曽祖父天智天皇の名前がしっかり銘記されているという。祖父たちも満足してくれていると思う。
また、私が鋳造させた梵鐘は平安時代になり、大宰府に権師として左遷された菅原道真がこの梵鐘のことを、下記のような漢詩に詠い上げて有名になった。
この漢詩は20世紀には学校の教科書に採り上げられて、広く知られるようになったという。鋳造して1300年余、わが国最古の鐘として人々に親しまれる国宝の鐘、21世紀の時代にも毎年除夜の鐘として殷々たる響きを聴かせるという。私は冥利に尽きる。
○菅原道真の漢詩 「門不出」
一従謫落就柴荊 一たび謫落(貶謫されて)柴荊(あばら家)に就く
万死兢々跼蹐情 万死に値する罪に兢々(恐れおののき)として跼蹐の情(身が縮む思い)
都府楼僅看瓦色 都府の楼閣はわずかに瓦色を看るだけで行ったことがなく
観音寺只聴鐘声 観(世)音寺はただ鐘声を聴くだけで行ったこともない
中懐好逐弧雲去 私の中懐(心の内)は弧雲(一片の雲)が逐去(去来する)を好む
外物相逢満月迎 外物(外の世界の物)はあの満月に相逢(出会い)うて迎えるだけ
此地雖身無檢繋 此の地で私の身に檢繋(拘束や取調べ)は無いと雖
何為寸歩出門行 何為ぞ(どうして)寸歩(一歩)でも外出する気になれようか
つづく