小説「ザ女帝」 (13)
38 元明天皇の即位
(元明天皇の独白)大宝3年(703)1月、国でも我が家の中でも君臨していた姑の持統が数日の患いであっけなく崩御しました。1年間の殯のあと本人の意思で、我が国の皇族として初めて火葬され、遺骨を銀の壺[i]に入れて天武と同じ檜隈大内陵に合葬しました。これで一連の葬送行事は終わりました。天武に較べると簡略でした。
姑の持統は私と同じ天智の娘で異腹の姉です。私はこの姑に望まれて一歳年下の甥、草壁と結婚し、ずっと嫁として姑となった姉に仕えて来ました。勝ち気で口うるさく、息子を盲愛するこの姑には本当に悩まされました。頼りにしたい夫は年若で、後世の言葉で言うマザコン男、甥っ子だから仕方ないか、そう思いながら私はいつも耐えて来ました。姑は晩年、天皇に立ってからは公務が多忙となり、家のことを構う時間や私をいびる暇がなくなり、また息子も亡くして私を頼らざるを得なくなり、よっぽどやり易くなりましたが、若い頃は本当に泣かされましたヨ。私は1日も早く息子の軽を1人前にして天皇位を継がせなくては‥、娘2人を育てなければ上げなければ、それだけを目標に生きて来ました。
息子は何とか朝堂の合意を得て、42代文武天皇になりました。ところが今度は嫁の問題で私は悩まされています。将来の皇后候補と、見つけて来た某皇女は不祥事を起こして出奔、実家に帰りました。不名誉なことなので敢えて名前を秘します。次は息子の文武が療養先の紀州で見初めた娘です。重臣藤原不比等の奔走で不比等の養女藤原宮子とし、嬪として入内させました。やがて男児た首皇子が生まれました。しかし、出産の直後から嫁の宮子は神経を病んだか言動がおかしくなり、不比等が引き取って実家で療養させることになりました。その後ずっとです。赤ん坊の皇子だけが私たちの処に残りました。大宝元年(701)のことです。
姑の持統の崩御を機に、本気で私は遷都を考えたくなりました。臭気漂う藤原京はイヤです。持統は舅の天武と共に土地造成や都市計画の段階から関わり、愛着ある土地と宮殿です。遷都から16年経った今は政のための諸堂もずいぶん建ちました。南都七大寺と言われる大寺も次々と移転や建立が相次ぎ都として順調に発展して、皆に臭気を忘れているようですが、鼻が敏感な私にはツライことです。
私は息子の文武を突き、とうとう慶雲4年(707)遷都の審議に入らせました。ところがその年の6月、亡き草壁の法要のあとに体調を崩した文武は回復することなく、翌月(707 7月)に薨去してしまいました。まだ25歳でした。何と言うことでしょう。一粒種の7歳になったばかりの孫の首(後の聖武天皇)を私の手元に遺して‥。しかも母親がいない孫を‥ですヨ。
こうして私は長屋王の強い奨めによって中継ぎ天皇に立つことを決意し、43代元明天皇となりました。長屋王は高市皇子の長男です。また、私の甥(同腹の姉でもある御名部皇女の息子)で、婿(私の次女吉備皇女の夫)でもあり我が家に最も近い身内の男子です。人望があり朝堂では今、大納言です。姑の持統が高市皇子を頼りに即位したように、私はこの長屋王を相談相手に政をして行こう、私はようやく腹を括りました。それにしても私は姑の持統と全く同じ運命です。よほど縁が深いのでしょうか。
(藤原宮子の独白)私は紀州の浜辺で生まれ育ちました。その頃、病気療養のために紀州の寺に滞在中の若い天皇さまに見初められました。私の意志とは関係なくて都に連れて来られ‥、私の身辺は激変しました。或る大臣の養女にされて、そこで面倒な礼儀作法や文字を学ばされ、私を見初めた天皇さまの家に嫁がされました。
そこは大変な家でした。家族は夫の天皇さま以外は女ばかり、大姑、姑、小姑二人の全員が皇女(ひめみこ)さまです。とくに大姑さまは先代の天皇さまとかで家の中でも大変威張っておられました。そんな皇女さまファミリィーに、どうして浜辺育ちで庶民の娘が入って行けましょう。鳥や動物だって、巣の中に異物が入れば、突(つつ)き出し、蹴り出してしまいます。
そう、私もファミリィーからはじき出されて、だんだんと心を病んでおかしくなりました。でも妊娠したので出産までは、と我慢しました。男児が生まれるとすぐに病気療養と言う名目で養家に戻され、そのまま療養と言うことで幽閉同様に30ウン年過ごしました。息子に会えたのは息子が天皇になってからです。
息子は私に似たのか体格も、ひ弱だった父親とは違い立派、20代前半で夭逝した父と祖父の2人の年齢を足した以上に長命で、たくさんの良い仕事をしました。きっと娘時代は健康だった私の血(遺伝子)が多く流れているせいかと密かに喜んでいます。
もっとも息子は若い頃は心が弱く、神経症的にいろいろ病んだらしいですが仏教に深く帰依するようになってからは、すっかり丈夫になったと聞いています。
[i]檜隈大内の御陵は鎌倉時代の文歴2年(1235)に盗掘にあい、持統天皇の遺骨を納めた銀の壺が中の遺骨は捨てられ、壺だけ盗まれたという顛末が『明月記』に記されている。
39 平城京遷都
(元明天皇の独白は続く)そうです。文武の崩御で年号が和銅と改まりました。その元年(708)に私は遷都の詔勅を出し、和銅3年(710)に遷都しました。
新しい都は奈良盆地のほぼ中央で、後の地名で言う奈良市と大和郡山市にまたがる一帯です。平城京と名付けました。やはり藤原京と同じ条坊制を敷きました。
ただ御所の位置は方形の中心ではなく、北端にずらしました。もちろん遷都当初は建物も御所と大極殿だけで寒々としていましたが、徐々に賑わい始め充実しました。そう、平城京になってからは御所のことを「内裏」(天子の在す処)と言うようになりました。
後世の人々が「古への奈良の都」と呼んだのは此処です。絢爛とした天平文化が花開きました。後世の歴史の時代区分も、この遷都(710)から天平は奈良時代に変りました。それ以前の御所が転々とした藤原京時代までを飛鳥時代、飛鳥(白鳳)文化と区別します。もちろん白鳳文化も素晴らしい仏教文化を誇りました。
平城京は桓武天皇が山城の長岡京に遷都させるまでの70余年間、我が国の首都として政治・経済・文化の中心地として繁栄しました。また、遠いシルクロードの終着点とも言われて、さまざまの珍しい外来文化も入って来ました。
私が遷都の詔勅を出した当初とは大違いです。あの頃は朝堂の皆も大反対でした。全国的な飢饉もあり、それを理由にずいぶんと私は非難されました。
しかし、こちらの都が賑い始めると、その声は徐々に沈静化しました。四大寺とか南都七大寺などの大寺院も次々と移転して来ました。騒がしかった朝堂の顕官たちも次第に住居を移すようになり、都は大発展しました。
そうそう、平城京は70数年間に2度程、しばらく余所に移りましたが、短期間なので説明は省きます。
しかし、これは私が薨じた後のことですが、奈良時代も後半になり、都の人口が10万人を超えて来ると、水不足と下水処理の問題、増大する人口を養うための食糧輸送手段など問題が浮上、とうとう桓武天皇は山城国長岡京へ遷都する勅を出しました。
長岡京は近くに3本も大きな川があり水も潤沢で、食糧輸送の水運も大丈夫、汚水だって川に流してしまえば清潔?, いいことづくめに思われましたが、すぐに大洪水に見舞われるので‥。それで平安京に移ったそうです。
和銅5年(712)3月、待望の『古事記』3巻が完成しました。晩年の天武天皇が命じた仕事です。乙巳の変で、類焼・焼失した『国記』や『天皇記』に代る新しい国書の編纂を、という勅命から30年近くかけてようやく出来上りました。序文には舅の天武自ら認めた次のような言葉が記されています。
「討覈舊辞 削偽定實 欲流後葉」(帝紀を選んで記録し古い言葉を事実に照らして誤りを削り後世に伝えようと思う)と。
文字のなかった時代は大事な出来事は暗誦して伝え、それを専門の仕事にする人がいました。稗田阿礼はそんな人の一人です。古事記は阿礼が誦習(暗誦)する言葉を太安麻侶が書き取り、さらに諸資料に照らして書き上げました。内容は神代時代から始まり、日本各地の神社の祭神となる神々が大勢登場し神道の歴史書ともなる日本最古の史書と言われます。
文字(漢字)の伝来は3世紀後半、百済から伝えられたと言います。飛鳥から奈良時代にかけての政務や歴史、詩歌の記録は渡来家系の人たちが、専門の書き役として携わったと言います。前述の太安麻侶の家系もそうです。
ともあれ、3代前の天皇さまから引継ぐ大仕事が1つ完成したのです。私は安堵しました。さっそく首皇子と長女氷高を伴い御廟の檜隈大内陵に参拝し報告しました。舅姑の天武も持統も喜んでくれたと思います。
和銅6年(713)5月、私は朝堂からの要請で、全国各地の『風土記』の編纂と提出の勅を出しました。全国を統一し律令国家の体制を整えたからには、全国各地の状況を把握しておかねばならないからです。国毎の文化や風土、地勢などをまとめた報告書(風土記)の中には、①郡郷の名前 ②産物 ③土地の肥沃の状況 ④地名の起源 ⑤伝えられている旧聞異事 などを必ず入れるよう命じました。
翌年の和銅7年(714)6月には、首の立太子礼を行いました。私も50歳を過ぎ、最近はめっきり弱りました。首も文武と同様に15歳になれば即位して欲しいのです。その立場を確実にするために、文武よりも少し早く正式の皇太子に定めました。
立太子礼が済むと私はホッとし、長かった緊張が緩んだのか体調を崩し寝込みがちになり、とうとう病を発して再起が難しくなり、翌年の和銅8年(715)10月に退位しました。薨去したのは養老5年(712)です。
40 元正天皇の即位
(元正天皇の独白)母元明天皇が退位したので、皇太子の首がすんなり即位できると思っていましたが、そうはいきませんでした。病弱なこと、将来皇后に立てる正妃がいないことなどで、朝堂が難色を示して紛糾しました。
確かに首は孤児同様で母と私で一生懸命育てましたが、どこかひ弱な子で、すぐに体よりも神経を病んで寝込みます。まだ正妃もいません。と言うよりも、父草壁と弟文武と2代続けて後継男子が夭逝した天皇家には、首に見合う皇女は見回してもいるはずありません。確かに首の後宮には藤原不比等の娘光明子を筆頭に藤原縁者の娘たちが、嬪の身分で入っていますが、皆臣下の娘ばかりです。
そんなことで、長屋王と右大臣藤原不比等の強い勧めで私が立ち、44代元正天皇になりました。ええ、母に続く中継ぎの中継ぎです。私は病床の母と弟が遺した幼い甥を守っている間に婚期を逸してしまいました、ハイ。妹の吉備は長屋王と結婚しましたが、天皇家を守る責任がある長女の私は他家へは嫁げませんでしたから‥。結局、母はその後数年存命して薨去は養老5年(721)の12月でした。
これは恨み言ではありませんが、我が家の苦労の始まりと言うか、おかしな家になったというべきか、その原因は全て祖母持統にあると、私は思います。祖母が息子の草壁、私の父ですね、あまりにも盲愛し天皇にすることに執着し過ぎたからです。
そうです。祖母が放射する強烈な“天皇にしたいエネルギー”に照射され過ぎて?父も弟も早死したのだと思います。もっと自由に伸び伸びと過ごさせて上げていたら、もっと長生きできたのではないでしょうか。一番の原因は祖母にあると思います。
しかし祖母は自分が原因だとはツユ思わず、自分はいいことをしていると信じて、頑張って来たことです。自分の欲望と混同させた近視眼的母性愛の押しつけに、全く気付かずに‥です。家族には迷惑なことでした。母にそういうと笑いながら
「お祖母さまにキツイことを言うわネエ。でも面白い見方ネエ‥、お祖母さまだってご自分では一生懸命なのよ。反省も努力もしていらっしゃるし‥」
「でも、トバッチリを受ける者は大変だア」
私と母は二人して大笑いました。
父が夭逝した時、祖母が思い切りよく皇位を異腹の有能な皇子を選び譲っていたら私たちはもっと気楽に、のんびりと生きて行けたと思います。
ともあれ、こういう家に生まれたのです。私の運命と思って、これからも私はこの家を一生懸命に守って行きます。いつの日か甥に譲位できる日まで。
日常の政務は義弟の長屋王と右大臣の不比等に任せ、私は仏教で言う慈悲を垂れるだけにします。何年か前から私は仏教に帰依していますから、私の勅願寺にしたいと、言って来る寺には「ハイハイどうぞ」と勅許を出します。地方の寺に割合多いですネ。私の名前で寺に箔がつき、仏教興隆の一助になればと喜んで協力しています。
不比等は母方の祖父天智の側近だった藤原鎌足の息子です。有能な官僚で、母元明の侍女で弟の文武の乳母の橘三千代を娶っていますから、我が家の最も身近な臣下、何でも頼みやすい人です。不比等は考え方も中庸で温厚、母元明が信頼している臣下です。平城京遷都や大宝律令の制定に尽力してくれました。母が引立てスピード出世、長屋王より20歳以上も年長です。朝堂でも年若の長屋王をよく支えてくれます。
養老4年(720)、『日本書紀』(全30巻 系図1巻)が完成しました。数年前の『古事記』と合わせて、我が国と天皇家の歴史がようやく完成しました。祖父天武の勅命から30数年、責任者としてずっと携わってくれた舎人|《とねり》親王、長い間ご苦労さまでした。祖父もどんなにか安堵してくれたと思います。本当に有難う。
同年に右大臣の藤原不比等が没し、私は後任の右大臣に長屋王を命じました。彼は『日本書紀』の完成で体があいた舎人親王を相談相手にしてですね。この皇子は長屋王の父高市皇子の末弟ですから叔父に当たりますが‥、2人は気が合うらしく朝堂でもよく協力し、頻発する水害や干ばつによる貧窮対策、兵役の負荷軽減、税の軽減など、色々な善政を敷いてくれました。翌年(721)に母元明が崩御しました。
神亀元年(724)、ようやく朝堂で首の即位が認められて、45代聖武天皇になりました。立太子式から10年、24歳になり、父親の文武が崩御した年齢です。私は喜んで甥に譲位しました。ようやく重い責任から解放されました。
とは言いましても聖武は病気を理由に政務にあまり熱意がなく、仏教にのめり込んで寺の建立ばかり熱心です。結局は陰に陽に私が補佐することになりました。悲しいこともありました。「長屋王の変」です。不比等の息子4人が結束して妹光明子を皇后にするために、臣下の立后に反対する長屋王に謀反の罪を被せて、一家を死に追いやったことです。妹の吉備も亡くなりました。
でも数年後、都に天然痘が流行った時に4人全員が罹って死にました。まさに因果応報です。また、長屋王が薨じてから藤原4兄弟に靡いた舎人親王もやっぱり天然痘で亡くなりました。これも因果応報ですか。少し気の毒な気もしますが‥。
41 聖武天皇の即位
(聖武天皇の独白)神亀元年(724)私は即位して45代聖武天皇になった。私は天皇になどなりたくなかった。周囲は皆皇子や皇女ばかりだが、私は自分の出生に劣等感がある。私も幼い頃は伯母を本当の母と思っていたが生母は身分が低い庶民という。
それで神経を病み、療養と言う名目で藤原の家で幽閉同様にして世間から隠されているらしい。何ということだ、何と可哀そうなことをするのだ。
また、妻の4人の兄たちも、妹を皇后にしたいという兄弟の情からとばかり思っていたら、その実は妹をテコに権力を握りたい欲だったのだ。アアあれほど我が家に尽くしてくれた長屋王やその家族まで犠牲となった。藤原兄弟の顔など見たくもない。あの兄弟が牛耳る朝堂など行きたくもない。
私が仏教の経典で知る釈迦は王子の身分にありながら全てを捨てて出家した、アア釈迦が羨ましい。私もそうしたい。しかし私がそうすれば、私を一生懸命に育ててくれた元正伯母に、高齢の伯母に負担と迷惑がかかる。それは申し訳ない。
(長屋王の独白)私は40代天武天皇の総領息子の高市の長男として生まれた。母方の従妹吉備と結婚したが、妻の実家の天皇家は義母と義姉が幼い孫の首(後の聖武天皇)を守る女所帯だから、私は結婚当初から一番身近な身内の男子として、何かと相談に乗って来た。
義母は天皇に即位すると、私の朝堂位階も一気に引き上げてくれ、私を自分が最も信頼する臣下、右大臣藤原不比等の片腕にして政務を覚えさせて、将来朝堂を任せられるよう配慮してくれた。
不比等が亡くなると私がその後任の右大臣に、首が即位すると左大臣にして朝堂の全権を握らせてくれた。今度は私が舎人王を片腕に、二人三脚で山積する政務を処理する番である。
私は常に善政を心がけた。処が朝堂では聖武の即位を機に不比等の4人の息子たちの傍若無尽な言動に悩まされることになった。彼らの目的はただ一つ妹光明子を皇后にし、それをテコに権力を握って自分たちが朝堂を支配することにある。こんな権力亡者に朝堂は任せられない。
今や皇親の筆頭である私は、臣下の女を皇后にすることに反対した。ええ、これは建前で、ホンネは権力の亡者たちに朝堂が蹂躙されるのを防ぎたかった、だけである。皇后の件は聖武の年齢に見合う皇女がいないから、よく分かっている。
特定の臣下を重用し権限を与えすぎると、本人はともかく息子たちは偉くなったと錯覚するようだ。壬申の乱の時もそうだった。前は入鹿一人だったが、今回は四人である。手ごわいことだ。
そうこうするうちに、小さなイチャモンを契機にして「左道(道教による呪術)によって国を傾けんとす」。つまり私に謀反の疑いを掛けて、兵力を握る藤原宇合らが出動するという。
「邪魔者は消せ」ということか‥。私は覚悟を決めた。妻は一緒にと申し出てくれ、息子たちも同調してくれた。これから先ずっと謀反人の家族として生きるよりは、と言ってくれた。申し訳ない、そして有難う。こうして彼らがやって来る前に妻や子供たちを先に逝かせて、私も絞首した。これが「長屋王の変」の真相である。
その後、4人は流行り病であっけなく死んだという。後世には、長屋王の崇りなどと喧伝されたが、私はそんな陰湿なことはしない。そう、元正天皇が言うように、全て因果応報である。
(再び聖武天皇の独白)これが飛鳥から天平時代にかけて、我が家の約百年間5代4人の女帝を中心にした物語である。最後の元正女帝は退位後も20数年健在で、私が娘の阿部皇女(後の孝謙天皇)に譲位する前年、天平20年(748)に68歳で崩御した。
一方の私はと言えば、天皇でありながら仏教に傾倒して政務を顧みず、全国に国分寺や国分尼寺の他に、最後は東大寺に大仏まで建立した。そんな私に代って晩年まで政務を肩代わりしてくれたことを感謝している。
生母藤原宮子には正一位を献じ36年ぶりに再会した。本当に苦労・心労をかけた。可哀そうな人生だったと思う‥、子として申し訳ない。
最後に4人の女帝たちの人生を再度辿ってみて、物語の締めくくりにする。祖母の祖母に当たる皇極・斉明女帝(重祚)は有能で傑出した二人の息子(後の天智、天武)に支えられて100%母親を生きた、4人の中で最も幸せな女帝だったと思う。
祖母持統は偉大な天皇だった祖父天武の後光の中で、専制君主の女帝として君臨したが、その実力と思慮はそれほどではなく、息子を盲愛する愚行の数々も露呈した。
元明と元正の母娘は皇后にはならなかったが、遺された幼い後継男子の首を守ってひたすら血脈を繋いだ。この2人の違いは、母は嫁として姑に仕え、娘は病母と幼い甥だけが残る天皇家を守り、独身のまま生涯を過ごしたことである。
3人3様と言う言葉があるが、我が家系においては4人4様、みな1人1人が違う人生を、一生懸命にひたすら健気に生きた女性たちだった、女性の生き方のサンプルのような4人であったと、私はしみじみ思う。
了