悪所にいるから見えるものがある
好き嫌い、多様性、正しさ、傷ついた傷つけた、「今」を描く小説は激しくストレートな気がします。その分わかりやすいけど読み手の想像力や洞察力があまり必要でないのではと思ってしまいます。
知らない、自分はそこに生きていない世界、戦国時代、江戸時代。SNSもテレビも電話もない時代だからこそ想像力がふくらみ、考察し、時空を超えたメタファーの存在に気づくこともあるのではないでしょうか。
木挽町のあだ討ち 永井紗耶子
芝居のように第1幕から終幕と、一話ごとに芝居小屋に関わる人々のインタビュー形式の語りになっています。
仇討ちの様子だけではなく、それぞれの歩んできた生き方が凄まじく市井の人の言葉の重さが響きました。
吉原の遊女であった母を持つ、芝居小屋の木戸芸者(呼び込み)、舞台の立師(殺陣を指導)は元武士で、衣装係は、隠亡(火葬場で死体を焼く職業)をしていました。芝居の小道具係の木彫り職人の夫婦も辛い過去があり、筋書(戯作者)は、元旗本の次男坊で許嫁もおり将来安泰で吉原での芸者遊びで放蕩三昧でした。
彼らがとても魅力的なのです。みな何かを背負っており芝居小屋に流れつき芝居に救われ、明るく逞しく生きています。
木戸芸者が、蕎麦を啜りながら菊之助に言った言葉です。木戸芸者も逃げてきたから。逃げてもまた「悪所」なのだけど。どこに逃げても、逃げるという勇気、戦法はあります。
武士であった立師に言った、町人の娘が言った言葉です。武士の道理でなく、世の道理は簡単です。立場によってそれを難しくしてしまってます。清濁併せ呑むという政治的なことも武士にはありますが、呑んではいけないにごりもあります。
木戸芸者、衣装係は今でいう親ガチャ、格差社会にも通じるし、ジェンダーや多様性にもつながるし、立師、筋書の彼らは元武士らしい正しさもあります。
時代小説は、「今」でないぶん想像力が広がります。ストレートに、正しさはなにかと声高々にいい放つものではなく、その生きざまから伝わることだと思います。
遊郭、芝居小屋は悪所といわれてますが、
きりたった崖のふち、けわしい坂道、危険な、また進むのに困難な場所、難所という意味もあります。
なにかを背負っていない人はいない。悪所だからこそ人にやさしくなれるのだと思います。
今悪所にいる人
できることはあるし、逃げてもいい。
悪所でなく良所で、良書だ。
ありがとうございました。