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【後編】 「理想」と「現実」は 対立させてはいけない というお話ですよ


前回の記事では、
夫と私の違いは、「自己受容できているか、否か」

そんな結論に行き着いた……というところまで説明しました。


前回の記事⤵⤵

どうして夫は自然と自己受容できていて、
私はできていないの?


互いの性格・性質の違いは、もちろんあるのでしょう。


その上で、私たち夫婦は、ふたりの子供時代の環境を、ざっくり比較しました。

それぞれに「父親」はいますが、子供の育児・教育に関わってきたのは、ほとんど「母親」のため、両者の母親の比較をしました。


夫と私の母親の共通点としては、やはり、口うるさかったということ(笑)

さんざん小言を言い、注意・叱責もしょっちゅう。
「母親」と書いて、「うるさい」とルビを振りたくなるほど(笑)

それが、イコール「母の愛情」でもあったわけですが、
私の実母は、過干渉であり、基本的に何をしていても、小言・注意。
それが四六時中鳴り止まない。

ですから18歳で、さっさと実家を出たのですが、
では、ふたりの母親の、圧倒的な相違点にスポットを当ててみると、

夫のお母さんは、自分自身を「とりたてて優秀でもない、普通程度の人間である」と自己認識していたようです。
劣等でもないが、特別優越感を持っているわけでもない。
ニュートラルに自己評価をしておられるお母さんだったようです。


ところが私の実母は、そうではありませんでした。

母は「自分は子供のころ、勉強もスポーツもできた、絵もうまかった、字もうまかった」「学校の成績が優秀で、教師からの評価も高く、可愛がられた」
このような類のことを、さまざまな場面で、呼吸するように口にしていました。

「自分は能力がある・自分は優秀でした」という空気を、何の気なしに、醸す母(笑)



恥ずかしいから、
くだらねぇ自慢すんなよ


……なんてバカにする知恵は、子供のわたしにはありませんでした。

「お母さんは、なんでもできたんだ。優秀だったんだ。すごいな」と信じ込んできました。


そんな「できる強者の立場」から、
わたしという子供は、いつもジャッジされている、そんな状況です。

できて当たり前で、できなければ「ダメ」と思い込むようになりました。


さらに母は、「能力や才能やセンスは、生まれながらに決まっている」という遺伝子を100%信じるようなところがあるにもかかわらず、遺伝子を受け継ぐわたしに「センスないわねぇ」などと言ってきます(笑)

娘の足りないところは、とりあえず「父ゆずり」ということにして、その矛盾を受け流します(笑)

わたしは、「もともとの性質・性格も、今ひとつに生まれた」うえに、
そういう至らない自分を「なりたい自分に変えてゆける」とも思えずに大人になったのです。


今、母が、わたしのこんな話を聴いたら、絶叫するでしょう

「そんな風に育てたつもりはない!」と(笑)


別に今さら、母を責めようってんじゃありません。
母からもらった愛情は、山ほどありますから。

そうではなく、夫にとっては、自然で当たり前な「自己受容」の感覚が、なぜ私にはないのか、それを自分なりに知りたかったのです。

夫が、「え? 自分を認められないってどんな感じ?」などと不思議そうに尋ねてきます(笑)


……ははは(笑)  

それが当たり前に「ある」人にとっては、「ない」人の感覚って、分からないんだね。

***

さて、そんなわたしがどうやって「自己受容」を育んだのか?


えーと、ですね。

「これと、これをして、自己受容できるようになりました!」チャンチャン


なんて、シンプルに説明はできないんですよね。

わたしと同じような人も、そうじゃないですか?
いろいろな人との関わりや経験や状況が、複合的に重なって、今このように生きているものですよね。


ただ、決定的なきっかけをひとつ挙げるとするなら、

わたしは約5年前に乳がんに罹患し、手術後、約一年、抗がん剤治療を行うのですが、その際に、自分のネガティブで悲観的な性格が、ほとほとイヤになったのですよね。

みっともなくて、情けなくて、

自分を殺してやりたいくらいに、自分のことが嫌いになりました。


これまでも、自己肯定感低めに生きてきた私ですが、ガンになって落ち込んで「もっともっとダメな自分」になり果てて、地獄を這いずり回るのですが、ついに、

てめぇ、いい加減にしろや!


と、自分で自分にブチ切れたのでした(笑)


その模様は、マガジン「脳みそジャーニー」に詳しく書かれていますので、ここでは割愛しますが、

いろいろと紆余曲折があり迷走しつつも、
あるとき一冊の本によって「自分をほめること」で自己肯定感が高まるらしいことを知ります。

自分で自分を ほめるですと!?
なんだ、その罰ゲームは!!
そんなこっぱずかしいことは、できない……


と拒絶しながらも、断崖絶壁に立たされていた私は、小さなノートを用意します。

恥ずかしいので、夫にも絶対に言えませんでしたが、誰にも内緒で、ノートに、毎日毎日、自分へのほめ言葉を書き綴りました。

そのあたりの細かいノウハウは、またいつか、私の手書きのノートとともに、ご披露したいと思うのですが、
とにかく、誰も私のことを認めてくれなくても、私が私を認めてやれる、私が私に合格点を出してやれるようになる、そんな自分になりたくて、私は毎日毎日、自分をほめ続けたのです。

ちなみに、最初に書いた「ほめ言葉」は、

「自分をほめる」なんてことを、実際にやってみる私って、えらい! すごい!


というもの(笑)


そうして必死で、自分をほめまくり、当初の目的も忘れたある日のこと、ふと気づくのです。

日常生活の中で、自然と自分をほめてやれるようになっていると。自分のことを認めてやれるようになっていると。

自己受容できるようになってきた!!(涙)


……とまあ、駆け足で説明しましたが、
「ほめ」以外にも、いろいろな状況が噛み合わさって、自己受容という「精神的支柱」「わたしの土台」を手に入れたわけです。


はい、ここでようやく、夫と同じスタートラインに立てた!!


さあ、話はここからだ!

どうやって、楽に楽しく、理想の目的地に向かうか。


***

最近、「冒険モード」という言葉を知りました。

みなさんご存知のドーパミンは、「報酬そのもの」を得たときにも出ますが、なんらかの報酬を「期待するとき」にこそ、ドバっと放出されるそうですね。

ギャンブルなどはこのメカニズムを利用した遊びだと思うのですが、この「報酬系回路」のメカニズムを、わたしたちが、何かの目標を目指すときや夢をかなえるときにも、うまく活用したら、いいと思うんです。

「やってみたい!」「がんばってみたい!」「ほしい!」

私たちが行動するときの動機で、これに勝るものは、多分ないんですよね。


何かを成しとげようとするとき、「苦しまないと、成果が出ない」と考えがちなのは、私たち人間が陥りがちな落とし穴かもしれません。


私たちが冒険をするように、わくわくしながら何かに取り組むとき、脳みそも、はりきるのです。
試行錯誤や創意工夫が生まれ、本来なら苦しい練習や訓練なども、楽しく、比較的スムーズにこなせる状態になる。

子供が同じ勉強をするのにも、
「よし、今度のテスト、がんばって周りを驚かせてやるぞ!」と思って取り組むのと、「テストで良い点とれないと、失望されるぞ、叱られるぞ」と恐怖を回避するために取り組むのとでは、学んでいる最中の楽しさも違えば、学習の吸収のされ方も違ってくる。

この好循環システムを、大人の自分にも、応用すればよい。

自分に厳しくムチを打って走るのではなく、いかにおいしそうなにんじんをぶら下げて、ながく走れるか。


自分なりの「おいしいにんじん」を探して、ドーパミンを適宜ドバドバッと放出させながら、自分を楽に理想へと近づける。

人生は、こっちの方が断然イージーモード!

ハードモードで生きてきた私だからこそ、痛感しています。

そのためには、まずは「自己受容」し、「あるがまま」の自分を認めてやる。

そうすれば、本来なら対立しているはずの「現実/あるがまま自分」と、「理想/成長したい自分」を、仲良く並走させられる。


人は、生きている限り、いつだって「至らない自分」がそこにいる。

しかし同時に、結構がんばっている自分もいる。

今の自分の「あるがまま」を認めながらも、同時に理想を描き、いかようにも変容していけると思える自分。
それらを、矛盾なく成立させられる自分になれたとき、きっとあなたの力は最大限に発揮される。

「おいしいにんじん」を自分でぶらさげて、今日を楽しく生きようぞ。
頑張るのもいいけれど、必要以上に、苦しまんでよい。


わたしも、まだ道半ばではありますが、あなたもご一緒に、イージーモードで参りましょう。

あなたは自己受容ができているタイプですか? 
それとも私と同じタイプかな。

何か目標へ突き進む上での「おいしいにんじん」のアイディア、よかったらシェアしてください。

長文、お読みいただき、ありがとうございました。

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