ASD、ADHDと人形表現についてーvol.2 〜共生する身体〜
*以下、「発達障害」自助グループの文学研究者、横道誠さんの著書「みんな水の中」を参考に、主にASD、にんぎょうとわたし、について考えたメモになります*
ーにんぎょうの身体とASDー
身体感覚が希薄だった。
すぐに意識がどっかにいく。
いつも、薄い壁一枚隔てた向こう側からみんなの会話をみたりきいたりしているような。
水の中にいる感覚とはこれなのか。
わたしは人形劇団を辞めたあと、NPO法人国際人形劇連盟、日本ウニマへ加入したのだけど(劇団の方がそこの代表で、紹介もあって)加入するとそこに自己紹介を載せる欄があった。
その時点で劇団員でもなかったし、たいして実績も功績もなく、大学時代に勉強していたことといえば美学だった。
自分の存在を紹介することは難しくて、それで感覚的に書いた自己紹介はこんな感じ。
(名前は伏せます)
ちょっと恥ずかしいけど💦
今考えると、ASD的な身体感覚の不安定さが現れていたように思う。
未来への不安と自分の身体の不確実性により、
いまここ、への意識を持ちづらく、超越的なものの探求に惹かれる。
身体感覚が希薄で、気を抜くと自分以外のものに
吸い込まれてしまいそうになるから、自分の身体を緊張させる。それで、いつも自分の身体への意識が過剰になり飽和してしまう。
わたしには収集癖もある。空間を把握できないから、把握しようとしてミニチュアの世界をつくる。操られないために、創る側にまわるというか。(うまくはできないけどね。)
そうすると自分の身体がばらけない。
横道誠さんの著書「みんな水の中」 でも、「ASD者は魔法の世界に住んでいるかのように未来への不安が大きい」(p.185)ということが書かれてあった。
にんぎょうに惹かれたのは、人間に比べて老いなどの変化がなく、生き物が死んだ後銅像が立てられるように、魂の永遠性を感じさせるからなのかもしれない。
常に先のことを気にして、今への感覚がないから私の身体はぼやけがちだった。
だから、にんぎょうというモノの身体が必要だったのだと思われる。
*【13】魔法の世界【22】透明化(光合成)【26】宇宙の孤独を感じる【28】ばらける体【35】感覚さまざま(ニ)【78】自力救済としての収集 ほか参照*
ーにんぎょうの身体とトラウマ克服ー
以下、「みんな水の中」において引用された、ヴァン・デア・コークによる、トラウマからの回復に重視されること。
また、ナジャヴィッツは、「トラウマや嗜癖によって感情が過剰になったり不足していたりする際には、感情を「健全な中間レベル」に戻すために安全な場所へと着地(グラウンディング)する必要がある」という。
(同本 p.200-201から引用。ナジャビッツ、リサ・M.(2020)『トラウマとアディクションからの回復ーーベストな自分を見つけるための方法』)
わたしにトラウマがあるとすれば、みるーみられるという視線のトラウマと、自分の声を発すること、喋ることへのトラウマだ。
表情から多くを受け取ってしまうから、みるのもみられるのも苦痛だった。
言葉を話そうとすると、すぐにそれを監視して批判してこようとする自己がいる。
小さい頃から、声が小さいことを指摘されてきて、ちょっと萎縮すると声が出なくなる。
対人関係において緊張したり、意識を集中できないから、自分であって自分ではない、間接的なにんぎょうを通じて、他者と結ばれようとする。
そして受動的なにんぎょうを記述するという能動的な行為を通して、主体性を訓練している最中なのだ。
直接的な視線と言葉の脅威のないにんぎょうによって、自分を安全に可視化する。
声をつかって喋れなくても、許される。
そうするとコミュニケーションに余裕が生まれる。
被写体であるにんぎょうを大事に撮ろうとすればするほど、自分を大事にすることに繋がることも発見した。
人間の肩書きから逃れ、身体性の希薄さから逃れられる。。身体のポジションがみつかる。
ここに、にんぎょう(人形、ぬいぐるみ)が特にASDの人たちにとって安心な表現言語になる可能性がある。
自分の中にいくつかのにんぎょうを飼いならすことで、自分を成り立たせるのである。
横道誠さんの著書に「文学と芸術とは、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならない」(p.51)いう記述があったが、わたしにとってにんぎょうはそういうものだ。
*ASDの人は、社会的に要求される視線への苦痛を抱えることが多い傾向にあるという。【52】見る、見られる ほか参照*
ーユニバーサルデザイン にんぎょうー
人外のものに共感する。
そういえば小学生の頃、りゅうゆんこという、満月の夜にやってくるキャラを作って妹の前で演じてみたりしていた。
以下は、わたしが一目惚れした人形作家tannaさんの作品。
性別や属性がよくわからない、曖昧な感じに惹かれる。にんぎょうとジェンダーに関しては、研究されてきていると思うし、研究の余地もあると思う。
シュールクリーム一座のにんぎょうは、実際性別や属性が曖昧なものが多い。
それは少なからず男性でも女性でもない天使的、超越的なものへの欲求がにんぎょうへの興味に繋がっているからだ。
ただ、昔からファッションドールが好きで、「女の子になりたい」、「女の子らしくなりたい」という憧れも強いのでふわふわした素材やレースのものに惹かれがちだなとおもう。
(それだって女の子に特有のものじゃないけど)
どんな素材のにんぎょうを扱うかによって、じぶんの中の性格も変わる。
対面するにんぎょうによって、じぶんの中から出てくるものも変わるし、あるいはじぶんの時々の状態によって、好きなにんぎょうも変わったりする。
にんぎょうは私にとって服と似ているところもあるように思う。それは服が好きな所以でもある。
にんぎょうをつくる、えらぶということは、じぶんをデザインすることでもあるのだ。
にんぎょうは、ユニバーサル・デザインになりえるのでは。。?
にんぎょうが手話のような言語として、広く認められたらいいのにと思ったりする。
実際、ぬいぐるみ研究などでも、ぬいぐるみの「人間じゃない自分を肯定できる」点や「まなざしの弱さ」などを、それ自体が持っている寛容な特徴として、ダイバーシティと結びつけようとする動きがあるように思う。
*Alissa Mello, Claudia Orenstein, and Cariad Astles ''Women and PuppetryーCritical and Historical Investigationsー"、詩と批評 ユリイカ「特集 ぬいぐるみの世界」2021年1月号 ほか、ぬいぐるみ研究者の方のお話も参考にしています。*
ーにんぎょうとの共生 身体性の補填ー
いつもどこか上のほうから自分の言葉や行動を観察している、だから「にんぎょうを操る人間」という枠組みを守っていられると安全圏にはいれる。。
でも、にんぎょうが安全に自分を表現し得る言語となる一方で、人前(多数派の社会)で自分の姿と共に(自分のような)にんぎょうを登場させるのは恐ろしいことでもあった。
曖昧な生身のじぶんが多くの目に晒されて境界線がなくなってしまいそうに感じるのだ。
(だから舞台で人形劇をすること、特に出遣いにコンプレックスもあるという複雑さ。)
にんぎょうを操る人間である私が第三者の人間の目(社会の中)で監視されることは、安全な枠組みが脅かされる危険も感じる。
これは、まだ社会の環境が、にんぎょうをユニバーサルな言語として許容しきれていないからなのかもしれない。
わたしにとっての人形劇とは、舞台芸術に限らず、人生において人形でコミュニケーションをとろうとする(半)人間、その物語のこと。
矛盾するかもしれないけど、いずれにせよ、人間がにんぎょうを操る人形劇の構図が1番自分自身を紹介しやすい。
いままではじぶんのにんぎょう(人形劇団 シュールクリーム一座)を世に発信するのも自分自身と同じように恥ずかしかった。
でもこうやって書くなり撮るなり作るなりして、立体的で複雑な世界を把握しやすいかたちに翻訳しながら、すこしずつ外と接触することで、人間である自分自身の輪郭も濃くなっていってる気がする。
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