日本人と神
私達はいつもどこかで何かに助けを求ている。
地震が起こったとき、病気になった時、恋人がほしいとき、試験に受かりたいとき、人はなにかに向かって助けてください、良い方向へ向かいますようにと願う。
一体どこへ向かって願っているのか。
人には神性というものが生まれながらに備わっている。つまり、無意識のうちに神を探し求める事を本能として装備しているわけである。
それはなぜか。
結論から端的に言えば、神という存在が人を造ったからである。
日本は、殊更この神という存在を近くに感じている民族だと言える。
自然の中に神を感じ、畏れ敬うのが古来からの日本人の信仰スタイルだ。
この自然の中に神を感じるという事にも理由がある。この自然も神が造ったものであるからだ。
聖書のヨハネの福音書1章では、神にはいのちがあると言った。そのいのちであらゆる万物を創造したのだ。
すなわち、この自然も神が造ったので自然物の中に神のいのちが宿っているわけだ。それを感じ取る日本人はある意味すごいなと私は思う。
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ところが、ここからが少し雲行きが怪しくなってくる話。
旧約のイザヤ書45章では、「私の他に神はいない」と語っている。
しかしそれに反して、あらゆるところで神を感じるせいなのか神が何人もいると錯覚し始めたのだ。さらには異邦の思想が入り、人が神になれるとさえ考え始めた。これによってこの神と人との均衡が大きく崩れていった。
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神とはこの世界を造った存在であり、いのちの根源である。だからこそ、命をもった生物を創り出すことができ、あらゆる事が可能となる。
人はどうだろうか?
人には命がある。しかし、その命には限りがある。つまりそれが尽きてしまえば終わりということだ。
これを神と呼べるのか?
さらに人は、命あるモノを創り出すことができない。草一本も造れないのである。
女性の体を通して人を出産することはできても、その構造はまるでわかっていない。
本当の造り手であれば、その細部まで分かり、性別の産み分けや容姿の選択まで自在にできるはずだ。
つまり人がする事は“誰かによって用意されたもの”を使って“増やしている”に過ぎないわけだ。
それでは神からは程遠い存在である。
しかし、何かの力を得たかのように人が神になれるという。しかもその過程も結局は命を持って生きたままと言うわけではないらしい。ものすごい矛盾だ。
日本の祖は神の一族という話もある。
これは古事記にある話だが、神がこの地に現れこの国を治めるようになったのが今の天皇家へ繋がるという話だ。つまり天皇家が神の一族だと言うことである。
しかし実際に天皇家の人々は私達と同じ肉体を持ち私達と何ら変わらない様子である。子孫を増やす過程で神の力が薄まったのか?
いやいや、そんな弱く揺らいでしまうものはそもそも神とは呼べないはずだ。
世の中には「日ユ同祖論」と言うものがある。
日本とユダヤの祖が同じだという説である。
その証拠とするものが、モーセの幕屋と神社の構造、使う言語や紋様の酷似からきているらしい。興味がある人はぜひGoogle先生に聞いてみてほしい。
ユダヤ人は神の選民と呼ばれていた。
アダム以降、神と約束を交わす人々を選民と呼ぶのだが、このユダヤの人々もそれに当たる。つまり神に選ばれた神様の家族となった人々である。
そういったわけでこの神の一族となった者たちだったが、後に約束を破ることで栄華から没落の道に陥って行く。異国から攻められ、その選民たちが逃れた先がこの日本という国だったのではないかという話だ。
これについての解答は、残念ながら聖書の中には書かれていない。あくまでも人が勝手に考えた仮説に過ぎない。
しかし、この世界はノアの大洪水で一度リセットされた。そこから再スタートした世界なのであれば、同じ一つのものに集約され、あらゆるものが酷似していることも何ら不思議な話ではないということだ。
しかしそうであっても、自らと違うものを排除し認めようとしないこの世界に些か違和感を覚えるのは私だけだろうか…