うたりん

もうお迎えくるわ、と言い出してから、 平凡な母の記録を残すべくnote を始めましたが…

うたりん

もうお迎えくるわ、と言い出してから、 平凡な母の記録を残すべくnote を始めましたが、2024.7.17なんの介護もさせず母は駆け足で去りました 母と生きてきた59年後くっきり線をひかれてしまった残された時間を大切に生きていくため、母の回想録と私のつまらない日常を描きます

マガジン

  • アラカン就活報告

  • 母の回想録

    一方的にすみません 忘れないうちに、母との想い出を思いつく限り書きます

  • 寺巡り

    大好きな奈良のお寺のこと、書きますね

最近の記事

就活報告④ ほんの少しだけ役に立って仕事人生を終えたい

面接までこぎつけた会社から連絡があった 今回初めての内定 採用とのこと、とてもありがたい 保険代理店で仕事をしたことがあることや、宅建の資格があること、あとお客様対応経験がちょこちょこあるところが好印象だと言ってもらえた 普通なら次々退職して会社を変わりまくってるからマイナス評価されるところを、 ごちゃごちゃ経験してるからいい❗️と逆に買ってくれたわけだから、全く奇特な会社だ 新しい事業を始めるから既存の業務はなく、自分で開拓していく感じとのことで、定年もないしおあつら

    • 母が頑張った思い出がたくさん詰まったもと我が家

      母が、41歳から57歳まで過ごした官舎を見てきた 実家から、祖父が亡くなるまでの3ヶ月ほどの母の手記が出できたからだ その祖父を看取った場所がそこだった 建物はそのまま残っていたが、もう誰も入れない状況で柵で囲いがしてあった もう少し経てば取り壊しになるのかもしれない 新しい官舎ができたから手狭な少し不便な官舎を引っ越そう、 と父が言い出したと母から又聞きした やめてくれるようお願いしたのに、なぜか父の言う通りにしかならなかった 私は中1で入学したばかり、弟は小6であと

      • 就活報告③不採用の理由をマイページで確認させて

        たまたまハロワのマイページで、選考が終わった求人のリストを見たら、 またもや、こちらになんの連絡もないのに、知らない間に入ってる⁉️会社が2社も 電話も手紙も来てないのに不採用になってた 先日は事前に連絡が欲しいとnoteで申し上げたが、百歩譲って、こちらが知らない間に入れるのは、まあいいでしょう ハロワさん曰く、FAX等で会社から通知が来るので応募者への連絡より先になることはある、とのこと  でも、なんで不採用になったか本当の理由が知りたい 知る権利があると思う 会社

        • 就活報告②話が弾むと落ちる

          先週に1件、今週に1件面接まで漕ぎ着けた会社さんがあり、今日なんらかの返事があるかも!と待ってた 結果、どちらも不採用だった 取らぬ皮算用だが、両方とも受かる気満々だった どうやって、断ろうかとさえ思ってた お上りさんだよね -面接①- マンション管理会社で、管理人さんのピンチヒッターをあてがう仕事 高齢の管理人さん世代に合わせて担当者もあまり若くない方がいいというので、ピッタリじゃないですか パソコン得意でマンション管理人も自分でやりたいくらいマンションが好きです!とアピ

        就活報告④ ほんの少しだけ役に立って仕事人生を終えたい

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        • アラカン就活報告
          4本
        • 母の回想録
          11本
        • 寺巡り
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        記事

          大安寺のだるまさんと萩

          今日は就活の面接 帰り、大安寺へ寄った 大安寺は東大寺とほぼ同じくらいに古く歴史のある寺だが、伽藍がなくなってしまい当時の権勢を忍ぶにはかなり想像力がいる 寺内は小じんまりしているが、南門構えは古めかしく趣もある ガン封じとして、笹酒をふるまったり、だるまみくじが有名 バス停から徒歩10分かかる 近鉄奈良駅からも離れているので観光客が少ないのも良い いたるところにいるだるまさんが、本当に人間くさくて、飽きない あっち向いたりこっち向いたり お線香をあげて、どこに母がいる

          大安寺のだるまさんと萩

          母は結婚して親孝行した

          母の母:祖母が亡くなった時、母はまだ40歳だった 私が小学6年のときで、ちょうど卒業アルバムの集合写真の撮影日にお葬式だった 10月のその日欠席すると、一人だけ別日に撮影した写真を集合写真の右上の枠内に並べられる それがどうしても嫌だ!と母に訴えて、祖母のお葬式に行かなかった 弟は行ったんだろうか?全く覚えがなくて、もしかして父親も行かなかったのかも知れない 母にしたら悲しみの最中私を説得する元気がなかったんだろう 軽々と承諾された 担任の先生にはよく学校に来れたな、とだ

          母は結婚して親孝行した

          就活報告①不採用にするなら連絡ください

          母がこんなに早く亡くなると思ってなかったので、いくら介護に専念するとはいえ普通なら退職はやりすぎだ とはいえ、イジメはやや鎮静化してたが、その他いろいろありあそこで働けるメンタルを持ち合わせて無かったので、これはこれで良かったと思ってる むしろ母が命をかけて辞めさせてくれたのかも知れない ただアラカンの就活の現実はこれまで以上に相当厳しくて、ハローワークにいろいろ紹介状を出してもらい履歴書を送ってるがほぼ全滅 「長年の交友関係もあるだろうし紹介とかしてもらえないの?」と

          就活報告①不採用にするなら連絡ください

          母から音楽のプレゼント

          母が亡くなってから、しばらくは 世界から音が無くなって静かになったような気がした たくさん電話して愚痴を言ってたので、音じゃなくて会話が消えたのか 会話が減ったのが音が無くなったように感じられるのか 無音の宇宙に放り出されたらこんな感じなのかな、と思った 最近やっと母がよく台所でご飯を作りながら鼻歌を歌ってたのを少しずつ思いだして音が戻ってきた手応えもある YouTubeで母が歌ってた曲も聴いてる 母が台所で鼻歌を歌ってると、私の夫がいつも「お母さん、機嫌いいですね」と言

          母から音楽のプレゼント

          官舎に咲く幻のコスモス畑

          私が幼稚園に入った昭和45年頃から 公務員の官舎に住んでいた 高度成長期ど真ん中 同じ建物内に住んでる家族の父親は全員同じ職業で、若いファミリーばかりだった 官舎の建物の入り口に一番近い1階の部屋に家族4人が引っ越した 代表の固定電話が最初から取り付けてあって官舎の住民にかかってくるすべての電話を取り次いだり、他にも仕事がいくらかあったようだが覚えていない、 とにかく管理人家族の一室だった 誰よりも早く入居した管理人室だったからなのか、 父のいない夜中に、いきなり玄関の鍵

          官舎に咲く幻のコスモス畑

          敬老の日に何にもしてもらえないと怒る母

          今日は敬老の日 母が生きてれば、この数日前から、娘たちに打診して、敬老の日に間違いなく電話しておばあちゃんに感謝するように、と言い含めておいたはずだ 娘達が小学生の頃までは、学校が工作の時間かなんかに、敬老の日にちなんで、おじいちゃん、おばあちゃんに感謝の言葉を書いたハガキを送りましょう❗️ とやってくれたので、親はなんにもすることがなく油断していた 二人の娘が中高生になってから、それがなくなったので、 「他の家では、敬老の日に食事会に呼ばれたりするのに、うちはなんのお祝

          敬老の日に何にもしてもらえないと怒る母

          勝手に咲くタマスダレと空き瓶

          この間 10日ぶりに実家に行った 全く気乗りしなかったが、なんか片付けないとと自分を奮い立たせて冷蔵庫の中身を半分処分した これだけで3時間を要した 出てくる出てくる小さな瓶の数々 手作りのおかずを空き瓶に詰めて、これを少しずつ食べてたのかな 母の生きた証だからと、生姜の酢漬けを少し味見したら直後にお腹壊してしまった 怪しげな食べ物ばかり 最近は自分でも何をいつ詰めたのかわからなくなってたんだろう 母自身も怖くて食べられなかったけど、捨てるには忍びなかった様子 母の孤独

          勝手に咲くタマスダレと空き瓶

          スーパーにも母はいない

          母との一番の思い出の場所は、 旅行先でもなく、母の故郷でもなく、 カッコ悪いけど、スーパーマーケットだ まずは、母の家の近くの小さいスーパー 帽子で髪を隠して、夏でも長袖の深緑の地味な色で細かい花柄のブラウスを羽織にし、パンツスタイルで、 ふらっとお惣菜を見て回ってる高齢の女性を見かけて、あ、お母さんいた、と思ってしまう お母さん、もう新生姜出てきてるね、と言いたいのに、母はいない 私の家の近くのいろんなスーパーでも、母を探すのは同じ 実家に車で行った帰り、 私の家に到

          スーパーにも母はいない

          子どものことばかり心配していた

          今年の1月から新しい職場で働いていた私は、毎日職場の女性3人からいじめられていた ちゃんと仕事を教えてもらえないので、わからないままにやると後から罵倒される 作業してると、なんでそんな遅いの、と怒られる パワハラまがいの感じだった 男性社員はその人たちが仕事がよくできると認定していたので、みてみぬふりをしていた 母にもたくさん愚痴を聞かせてしまった どこか訴えるところはないのか、と本気で心配していて、毎日そんなところ早く辞めなさいよ、と言っていたのに、仕事の区切りがつかず辞

          子どものことばかり心配していた

          母が逝ってしまった

          2024.7.17母が私を遺して逝ってしまった 斎場へいく車の中から、ぱらぱらと道に沿ってひまわりが咲いてるのが見えた 悲しみでうなだれ、私の乗っている車を見送っていた 夕焼けで、この世とは思えないほど空が赤く染まり、當麻寺で母と見た練り供養を思い出した 極楽浄土の遠い、私の及ばないところへ中将姫のように母が向かっているのを感じた とても優しい人だったから、きっと極楽浄土に行くのだと 涙が止まらなかった それからというもの、 世界でたった一人取り残されたような気がして毎

          母が逝ってしまった

          なぜ母のこと書きたくなったのか

          突然母が生まれた時のことを書き始めたが、スキ、としてくださる方がいて、本当にありがたい。 母は丹波から父と都会に出てきた田舎ものだし、勉強が嫌いだったらしく、全くおしゃれじゃないし、貧乏性だし、娘の私からみて、憧れの対象になったことは今までは全くなかった。 だけど、父が亡くなりそうになった時も、病院の付き添いも一人でやりきったし、 弱弱しくも一人で立ち向かい、 なんとか今だけを見てそれなりに生きる姿を見て、 私が今まで真実を見ていなかったのでないか、と思うようになった。

          なぜ母のこと書きたくなったのか

          平凡で平坦な母との記録

          母との記録を少しずつ書き溜めていきたい。 母はだいぶ歳をとってしまっていて、 でも私のために頑張って生きてな、と言うと、少し黙ってから、そうやな、と返してくれる。 本当は母の人生の順番どおりきっちり描きたかったのだけど、そんなことする時間の余裕がないな、と思った。 もう思いつくまま、書いていきたい。 母、今年の冬に、86歳になった。 1937年日中戦争が始まった年に生まれた。丹波の田舎に育ったので、戦争を実感したことはあまりないと言う。 それでも、母が3歳のとき、母の父

          平凡で平坦な母との記録