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母が頑張った思い出がたくさん詰まったもと我が家

母が、41歳から57歳まで過ごした官舎を見てきた
実家から、祖父が亡くなるまでの3ヶ月ほどの母の手記が出できたからだ
その祖父を看取った場所がそこだった

建物はそのまま残っていたが、もう誰も入れない状況で柵で囲いがしてあった
もう少し経てば取り壊しになるのかもしれない

新しい官舎ができたから手狭な少し不便な官舎を引っ越そう、
と父が言い出したと母から又聞きした
やめてくれるようお願いしたのに、なぜか父の言う通りにしかならなかった

私は中1で入学したばかり、弟は小6であと少しで卒業だったし、
母ももう近所のボスママからいじめられてなかった
引越しは全員嫌だったが、父の父:祖父との同居が始まってたので、
「今度のは新築で学校もすごくいい文京地区にあるし、なによりカラーテレビを買ってやるから」と餌を見せつけて、父は聞かなかった
当時まだカラーテレビがない家は珍しかったと思うが、弟だけは乗り気になった

私は引っ越すことを夏休み前のギリギリまでいろんな友達に言えなかった
7月にそれまでの官舎を出ないといけなかったのか、夏休みまでの何週間か電車でそれまでの中学に通って、最後に転居を伝えたとき、幼馴染には水臭いと言われた

新しい官舎は、都会のど真ん中にあり、地下鉄駅から徒歩2分、私鉄駅から徒歩15分、他にも徒歩や自転車でいけるJR駅(当時は国鉄)が2つあり、しかも大きな繁華街へ歩いたら30分くらいだった
実際、大学受験に失敗して1年間いた予備校はその繁華街にあり、交通費を浮かすため歩いて通ってた
近所に郵便局や公設市場、少し歩けば商店街、ショッピングビルや大きな病院がたくさんあり、確かに便利だった

でも、引越した後は、いろいろ衝撃を受けた

ホームレスの人が地下鉄の入り口、近所の公園、そこら辺の通りに寝転がってた

家の裏庭側の各戸に外付けの水道の蛇口があり、それでホームレスの人が水を飲んだり水浴びしたりで、母は怖がりながら許してあげてた

すごい臭いを纏りつつ大きなリヤカーを引っ張って鉄屑を集めてる人がいる
見てないのに何見てる!と怒られたことが何回もある

隣の家がトイレの窓をぶち破られて空き巣に入られた

近所に歩いて買い物にいくと、見ず知らずの車に乗ってるおじさんが、立ってる女の人と間違えて、遊びにいかない?と声を掛けてくるのは日常茶飯事

自転車に乗ろうとしてると知らないおじさんに自転車を押さえられて付いてこられようとしたこともあるし、別件だが後を付けられたこともある

前住んでたのどかな感じはそこには全くなかった

父はストレスのせいか知らないが、家の近くの酒屋の立ち飲みで毎日お酒をひっかけてから帰ってきて、隣の家のドアを開けろと叩く騒ぎを何回も起こした
警察から電話がかかってきて、
「道にオタクの旦那さん倒れてるから迎えに来てくれ」と言われて、母と弟が行ったこともある
父の思い通りに運ばない私の結婚式に頭にきて、結婚式の招待状の束を近くの地下鉄の駅の溝に捨てて会社へ行ったことがあった
母が気づいて駅に探しに行ったら、駅員さんが大事なものだと取っといてくれてた

弟は、中学の時勉強が嫌いで細かいイタズラをしてたし、高校生になってつまらないことで停学処分に一回なった
建築の専門学校に入ったものの、スケッチばかりやらされて付いていけなかったのかすぐに退学してしまい、何ヶ月か引きこもり生活に入ったのもこの官舎だ
父も何も言わなかったのにとうとう最後に珍しく母が切れて、
扉を開けて「そろそろなんかしいや」と言ったら弟は新聞配達をし始めた

中学のときの私の反抗期がひどかった
むしゃくしゃして母にだいぶ悪態をついた
その割に、転校した学校がすごく荒れていて私のその話を母はいつも真剣に悲しそうに聞いてくれた
高校の時、駅前に停めてた私の自転車が、無断駐車だということで、大阪の端っこの淀川の向こうの遠いところまで撤去されてしまい、母とふたり延々歩いて取りに行った
それでも怒られなかった
大学受験に全て失敗して何もする気がしなかった時、最後まで母は大学探しを諦めなかった
大学が決まった時父の旅行権利を使って一緒にこの家から広島旅行へも行った
私が結婚してこの家を出ようという時、この家から嫁入り道具を買いに出かけた
婚礼家具を選ぶ時の母は楽しそうに見えた

最後に祖父は、
親戚皆で泊まった有馬温泉の旅館でお酒を飲んでお風呂に入ったため、脳梗塞で倒れて、リハビリをしなかったせいで歩けなくなった
しかも何もかも自分ですることがなかったのでだんだんと認知症が進んだ
財布がない、と言って弟を疑ったこともあった 母相手に色ボケもあった記憶がある

母や父、私たち孫のことが好きではなかったのか本当のところはわからなかったが、とにかく祖父はうちではほとんど話をしなかった
4部屋しかない狭い官舎の中の1部屋を祖父が陣取っていたが、
部屋があるせいで余計孤立してるように見えた
母の手前祖父のことを心配するのが憚られた
話し相手がいなくて寂しそうに見えてたまに話かけたが反応はよくなかった

父の姉や妹、弟の家をいったり来たり
他の家のおもてなしは良かったのに、うちでは安物の食事しか出ない、ケチだとか何やらいろんな愚痴を自分の子供たちにこぼしてた

父の姉弟たちがよく見に来ていて、祖父に食べさせてといろんな差し入れがあった
祖父もその時は饒舌になり、まじめな母はよく怒ってた
彼らに愛想良くするようよく言われたものだ

父は毎日お酒を飲んでたので、ほとんど祖父の介護を手伝わず、
ひとりで手動の車椅子を押して祖父を病院に連れて行き、祖父の話し相手をしたのも、母だった
でも、母は祖父にしょっちゅう怒鳴られていて、「アホらしい、あんた達が成人したら、私は離婚する」が口癖だった
ただ、亡くなる直前に祖父は母に、「ありがとう」と言ったらしい 母は満足していた


そして、昭和61年1984年の年頭からいよいよ祖父の体調がおかしくなった
手記は昭和61年1月9日から始まってる

雨の日手押しの車椅子を押して病院へ連れていく大変さ
祖父が何回もお風呂で大便をしてしまい後片付けで四苦八苦する様子
祖父の介護や入院の合間に家に帰って洗濯したり、ご飯をつくる様子
祖父が看護婦さんによく怒鳴ったりしたせいで蒸しタオルを持ってきてもらえないとか
父が会社をずる休みしたり、酔っ払って夜遅く帰ってきたこと
私を頼ったとき、気の抜けた返事をされて頭にきた、と書いてある情けない20歳の私
美味しいと近所の人から聞いた喫茶店のモーニングを食べに私と母が早朝出かけてる少しの息抜きの時間
父の兄妹がひっきりなしに見舞いにくる
母の姉兄も見舞いにきてくれたこともある
最後に母も病院に寝泊まりしだしてる
3月に祖父が突然おかしくなって病院に連れていくが、医者が何もしてくれない!と乱れた字で書いてる 警察も来てる

一人で祖父のために悪戦苦闘、四苦八苦する日々を書いていた
母の孤独を思うと胸が痛くなくった
この時母は、49歳
この若さでこんなに大変だった事、当時の私はなにも感じてなかった 悲しいかな
母が亡くなってこの手記を見て初めて、どれだけ辛かったか知った

長閑な緑豊かな丹波の田舎から希望を胸に都会に出てきた母が、こんな都会のゴミゴミした灰色の街で、一人で苦労していたシーンがたくさん蘇ってきた

一人で本当によく頑張った
お母さんはすごい、偉いよ
お母さん本当にお疲れ様でした

長屋風で、4軒入れた都会の官舎
もうすぐ売却されるかもしれません


近所の公園の前は
熊野街道でした

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