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なぜ母のこと書きたくなったのか

突然母が生まれた時のことを書き始めたが、スキ、としてくださる方がいて、本当にありがたい。

母は丹波から父と都会に出てきた田舎ものだし、勉強が嫌いだったらしく、全くおしゃれじゃないし、貧乏性だし、娘の私からみて、憧れの対象になったことは今までは全くなかった。

だけど、父が亡くなりそうになった時も、病院の付き添いも一人でやりきったし、
弱弱しくも一人で立ち向かい、
なんとか今だけを見てそれなりに生きる姿を見て、
私が今まで真実を見ていなかったのでないか、と思うようになった。

研ぎ方がわからなくて適当に研いでいても、ずっと切れない包丁だと思っていたのがあった。
ある日たまたま持ってる包丁が両刃だと知って、正しく両刃を研いだら、いきなり切れる包丁に生まれ変わったことがあった。


この包丁のように本来の姿を知らないままずっとやり過ごしていたのではないか。

私は自分がどれだけ高齢の母にたよっているのか、
むしろ母が生きてるから私も生きてるのではないかと、思うことが度々になった。

長年の節約生活で、子供には金銭の負担は一切かけてない。
むしろお金があまりないだろうと、行くたびお小遣いを渡そうとする。

物欲がないので、自分では服やバッグを買ったりしない。
私がプレゼントした財布やバッグ、はたまた湯沸かしポットまで、それらの新品には手をつけず、きれいに布で包んで使わない。

そのお陰で、父のお給料はとてもすくなったのに、親に仕送りまでしてた。
小銭がたまり、年金だけで十分に暮らしていけてる。もちろん子供である私たちも、昔から外食したり旅行したり道楽することがほぼなかった。
それでも、将来の老後生活に不安を感じている私と夫からすれば、すごい、と言う尊敬の念しかない。

変わりものの父の尻拭いに忙しくて、娘の私に愚痴ばっかり言っていたので、
いつか私が母を救い出して、
私がお母さんに家を買ってあげる!!と豪語していた。
小学生の頃は周りがあんまり勉強しない年頃だし、頑張ればすぐ成績が上がったので、
自分は出世すると勘違いしてたのだ。

それなのに大学生になる頃には、そんな自分の言葉を忘れたかのように、毎日、クラブ、バイト、3年生以降はデートに忙しく、
母と出かけることが皆無になった。
大学生になったら、一緒に旅行とかしようね、と言ってたのにである。

母は、女の子など産まなければよかった、とさえ言うようになった。
ある日、大学のクリスマスパーティーで、生牡蠣を食べた夜、夜中に牡蠣を吐いてしまったことがある。
そのときは、いま片付けを手伝ったりしないよ、お母さんは。大人なんだからあんた一人で片付けてね、と言った。
あれは忘れられない一言だった。
言葉選びは、最低だなと思った。

要は、平平ボンボンな母だけど、
母なりの凄さはあるのだから、今となっては許すしかない。


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