スーパーにも母はいない
母との一番の思い出の場所は、
旅行先でもなく、母の故郷でもなく、
カッコ悪いけど、スーパーマーケットだ
まずは、母の家の近くの小さいスーパー
帽子で髪を隠して、夏でも長袖の深緑の地味な色で細かい花柄のブラウスを羽織にし、パンツスタイルで、
ふらっとお惣菜を見て回ってる高齢の女性を見かけて、あ、お母さんいた、と思ってしまう
お母さん、もう新生姜出てきてるね、と言いたいのに、母はいない
私の家の近くのいろんなスーパーでも、母を探すのは同じ
実家に車で行った帰り、
私の家に到着する前に必ず家の近所のスーパーから、母に電話してた
いま、スーパーに着いたよ、と
ああ、よかった、無事ついて、お疲れさん、と言ってくれた
だからスーパーの駐車場に着くと、反射的に電話しなきゃと一瞬思ったあと、母はいない、とまた思い出す
そしたら、その後のスーパーでの買い物が、まるで迷子になったみたいに寂しくて悲しくて辛い
実家の駐車場を出る前に、フロントガラスを下げて、また今度来るね、という私に気をつけてね、と返す
通りの角を曲がるまでずっとバックミラーから心配そうに見守ってる母が見えた
本当に心配性だったから、家に着く前に寄ったスーパーで、もう着いたよ、と電話してた
仕事の合間、仕事行く前、仕事帰り、ふとした時に母に電話して、元気?と聞いていた習慣は染み付いていて、
ふと母に電話したくなり、その度母がいないことに気づいて泣く
生活にこんなに染み込んでいた母の存在の強さが今になって初めてわかる
母は、目の前を照らして行くべき道を示す行燈ではなかったが、
私の足元が少しでも明るくなるようにいつも照らしてくれていた
それも、今頃気づいている
涙する度に、家で手元供養している母のお骨にお線香をあげる
お母さん、ごめんなさい
仕事も辞めてしまっているので、求職活動もしなければと履歴書をかきためる
まるで写経だな、と思いながら何度も何度も無心になって書く
履歴書を書くと自ずと自分の歴史を振り返ることになり、
そう言えば、私が大学受験に全敗したとき、母も懸命に他に3月でも受けられる大学がないかと探してくれたな、と思い出す
1984年当時、女子の浪人は世間受けが悪かった時代だったのに、短大や専門学校へ行く気にどうしてもなれず、母が庇ってくれて大学を目指すことに反対されなかった
きつい証券営業で外回りしてる時も、いつ家に寄っても、母はほぼ家にいて、パパッと作ってお昼ご飯食べさせてくれたな、とか
甘やかされてた
今回は、履歴書を送った会社2社に、書面で落とされた
今日ハローワークに問い合わせた会社には、3社とも年齢を理由に断られた
このメンタルで、いざ面接となって本当に大丈夫?と母ならいうところだけど、
それでも、やり続けるよ、お母さん
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