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【エッセイ】尾張④─熱田神宮と草薙剣─ 『佐竹健のYouTube奮闘記(95)』
熱田神宮駅で降りた。次の目的地である熱田神宮へ参拝するために。
(尾張へ行ったらここも行きたいと思っていたんだ)
愛知県民ではないけど、熱田神宮については昔から知っていた。三種の神器の一つである草薙剣を祀っていることや、源義朝の妻であり、頼朝の母でもある由良御前の父が、ここ熱田神宮の大宮司だからである。前者は記紀を読んでいたときに、後者は12年前(2024年当時)の大河ドラマ『平清盛』というドラマで知った。
知っているだけならそれでもいいではないか? と言われるかもしれない。だが、私にはそれだけで終われない事情がある。義朝や由良御前、頼朝も登場する歴史小説『ひとへに風の前の塵に同じ・承』を書いている。そこに熱田神宮が出てくるから、どんな場所か見てみたい、いや、見ておかねばならない、と思っていた。
熱田神宮の敷地は一言で言うなら「森」だった。住宅街とか店がある中に、ポツンと森があるのだ。いわゆる鎮守の森というやつだ。その鎮守の森と道路の境に鳥居が立っている。
森の中は鬱蒼と茂っている木々の葉が影を作っている。そのせいなのか、昼間でも真っ暗と言うほどではないが、そこそこ暗かった。
社殿へと繋がる参道へ出ると、明るくなった。
明るくなった先にあったのは大きな参道と熱田神宮の歴史について書かれたパネルであった。参道の左側には、瓦屋根付きの立派な塀垣と白地に模様のついた幕の張られた門みたいな建物があった。幕の向こう側に社殿らしき建物がある。どうやら賽銭箱の前にある幕付きの建物が拝殿で、向こう側にある社殿に御神体である草薙剣が祀られているらしい。
(三種の神器が祀られてる神社に来たの、初めてだな……)
若いときからいろんな寺社仏閣に足を踏み入れているが、三種の神器の一つが祀られている場所へ来たのは、ここ熱田神宮が初めてである。この鎮守の森一帯の空気がやけに清らかなのは、草薙剣が持つ霊験のなせる業なのであろうか。
※
まず、三種の神器とは何かについて話さねばなるまい。
三種の神器とは、草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡の三つの神宝のことを言う。この三つの神宝は、代々皇位の証として皇室に受け継がれてきた。
熱田神宮に祀られているのが、その一つ草薙剣である。
草薙剣は生贄にされようとしていたクシナダヒメを助けるため、須佐之男命が八岐大蛇を退治したときにその尻尾から出てきた。その後剣は天照大御神に献上された。そしてニニギノミコトが葦原中国(あしはらのなかつくに)に降り立ったときに下贈された。
ちなみに葦原中国とは、地上のことである。記紀神話においては、天上にある神々の国高天原、地下にある死や穢れの根源である黄泉国や根の国がある。人間の住まう葦原中国は、黄泉国や根の国の上、高天原の下にある。詳細については、いずれやかもしれない出雲編で書いていこうと思う。
神武天皇が東征し、大和橿原宮で初代天皇となり、日本を建国した。以来皇位継承者の証として、代々受け継がれてきた。
草薙剣は宮中で祀られていたそうだが、垂仁天皇の代に神託をうけ、八咫鏡とともに伊勢神宮に祀られていた。だが、その草薙剣が伊勢神宮の外へ出るきっかけとなる出来事が起きた。倭建命の東征である。
倭建命は九州でクマソタケルを、出雲でイヅモタケルを討ち取ったあと故郷の大和へ戻ってきた。そのあとすぐに父の景行天皇から東征を命じられる。
倭建命は伊勢神宮にいる叔母倭姫命に泣きついた。征西で帰ってきたら今度は東征を命じられ、父に「死ね」と言われているように感じたからである。
不遇な可愛い甥っ子が困っているのを見ていられなかった倭姫命は、
「何かあったときにこの袋を開けなさい」
と言って、彼に草薙剣と火打石の入った袋を渡した。
倭姫命からこの二つが入った袋を受け取ったあと、倭建命は東へ向かった。尾張で現地の豪族ミヤズヒメと契りを結び、遠江を経由し、駿河へ向かった。
駿河国へ向かったとき、現地の国造(くにのみやつこ)から、
「沼にいる荒ぶる神を鎮めてほしい」
と言われた。
倭建命は荒ぶる神のいる場所へ向かった。野をかき分け、荒ぶる神のおわします沼を探す。だが、その沼は一向に見えてこない。
(もしや嵌められたか?)
駿河国造が何かを企んでいることに気づいたときに、炎が迫ってきた。
炎は黒い煙を吐きながら枯草を焼き、倭建命の周りを囲んでいく。絶体絶命のピンチである。
(やはりそうであったか!)
沼が見えてこないから怪しいとは思っていた。荒ぶる神のことは、やはり嘘だったのか。こんな単純な罠にかかった自分と、罠にかけた駿河国造が憎い。
炎はどんどん大きくなり、倭建命のもとへ迫っていく。
(もう自分もここまでか……)
死を覚悟した。兄を殺したこと、女装してクマソタケルを殺したこと、剣を入れ替えてイヅモタケルを殺したこと……。今までのことが、走馬灯として脳裏を駆け巡る。
走馬灯の場面が父に東征を命じられた記憶から、倭姫命に泣きついたときに移ったときのことである。
「何かあったときにこの袋を開けなさい」
伊勢神宮に行ったときに叔母から渡された袋の存在を思い出した。
倭建命は叔母から受け取った袋を取り出した。中には火打石と剣がある。
「これで火を焚けということか」
とりあえず倭建命は、咄嗟の判断で火打石と剣で火を起こし、迎え火を焚いた。
自分の周りを取り囲む火は、自身の焚いた火とぶつかり、勢いが弱くなっていく。しばらくすると、炎は消えていた。
そして、騙した豪族の家を焼き払い、一族ともに殺した。
この故事により、倭建命が迎え火を焚き、騙した豪族を殺した地は「焼津」と呼ばれるようになった。
駿河の一件ののち、倭建命は伊豆を経由し、相模へと入った。そこで愛人の弟橘比売命が、自ら海神に捧げる生贄となるべく、荒れ狂う海へ飛び込んだりした悲劇があったが、それでも何とか房総半島へ渡り、常陸といった国々を平定した。
余談だが、上総の「木更津」や武蔵の「足立」は、彼が訪れた故事に由来している。
倭建命は東征を終えたあと、ミヤズヒメと結婚した。そしてその後、彼女に草薙剣を預け、荒ぶる伊吹山の神を素手で征討しに向かった。
伊吹山の神を討伐しに行った倭建命。だが、伊吹山の神の超自然的な力により倭建命はフルボッコにされてしまう。
命からがら逃げた倭建命は、病気になった。思い通りに動かぬ体に鞭打ちながら、故郷大和を目指す。
伊勢の能褒野という地に着いた。ここまで来れば、大和も目の前である。だが、このときの倭建命はボロボロであった。
最期の力を振り絞り、倭建命は次のような歌を詠んだ。
倭(やまと)は国のまほろばただなづく
青垣山隠(こも)れる倭しうるはし
──我が故郷大和はいいところだ。青い山々に囲まれた美しの国が懐かしい。
意味はこんな感じである。郷愁の念を詠んだ歌を詠んだあとも、故郷を偲ぶ歌を三首詠んだ。そして、
嬢子(おとめご)の床(とこ)の辺(べ)に置き去りし
その剣の大刀(たち)その大刀はや
──ミヤズヒメのところに置いてきた草薙剣がもし手元にあったら……。
後悔の念を歌にしたあと、倭建命は亡くなった。
彼の魂は白鳥となり、空の彼方へ旅立っていったそうな。
倭建命の死後、ミヤズヒメは草薙剣と亡き思い人倭建命を祀る神社を造った。それがこの熱田神宮である。
草薙剣には形代がある。形代は宮中に祀られているのだが、それが損失した出来事があった。壇ノ浦の戦いだ。
木曽義仲に追われ、体制を立て直すべく、平家は安徳天皇と三種の神器と共に都を落ちて西国へ向かった。一時は勢いを取り戻し、摂津一ノ谷まで軍を進めた平家であったが、源義経と範頼率いる征討軍に敗れて四国へ撤退した。
四国へ向かったが、義経が嵐に乗じて拠点のある屋島に攻めてきたことで虚を突かれ、九州へ落ち延びることとなった。
九州へ落ち延びた平家は、得意な海戦で勢力を挽回しようと1185年の3月に決戦を仕掛けた。
最初は平家が優勢だったが、潮の流れが変わったこと、イルカの群れが現れたこと、義経が禁じ手である船頭(非戦闘員にカウントされる)を殺すというトンデモ戦法を取ったことで劣勢となった。
負けを悟った平家の一門の者たちは、次々に海へと沈んでいった。中でも平教経は、敵二人を抱え、
「お前ら死出の山の供をしろ!」
と言って沈んだ。
その後安徳天皇とその祖母平時子が入水した。このとき時子は、外孫である安徳天皇と一緒に、八尺瓊勾玉と草薙剣を抱え、
「海の底にも都はありますぞ」
と言って飛び込んだ。
この後平知盛が飛び込んだが、このことについては長門編にとっておくことにしよう。
このあと、後白河院は草薙剣と八尺瓊勾玉を捜索させた。
幸い、八尺瓊勾玉は見つかったが、肝心の草薙剣の形代は見つからなかったそうだ。
平家が三種の神器を持ち出し、海に沈めた一件は、平家一門の者たち以外の人生を狂わせた。
一人目はまず、義経である。彼は壇ノ浦の戦いのあと、兄である頼朝に討たれた。この出来事が頼朝が義経を滅ぼそうと思った原因の一つとなった説もある。
もう一人は、後鳥羽院である。彼は源平の争いで世情が混乱している中、三種の神器なしで安徳天皇に代わる天皇に即位をした。そして在位期間中に三種の神器の一つ草薙剣が紛失した。彼はこのことをコンプレックスに思っていたそうだ。その証左に何度か捜索をしている。また、彼は作刀や武芸も嗜んでいたそうだが、これには「三種の神器なしで即位した帝」ということへのコンプレックスの表れだったのだろうか。
余談だが、後鳥羽院の作った刀は「菊御作」と呼ばれ、現在東京国立博物館に収蔵されている。
※
参拝を終えた。この日も特に願うことが無かったので、いつもの挨拶と日々の感謝を述べるだけに留めておいた。
「さてと、神社の中に塀は無いかな……」
私は塀を探すべく、辺りを見回した。
「お、あった!」
塀は社殿の目の前にしっかりあった。熱田神宮へ来たもう一つの目的は、この塀を見るということも入っている。
(続く)
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