【エッセイ】伊豆③─伊豆にいたときの北条氏と頼朝挙兵─『佐竹健のYouTube奮闘記(69)』
堀越公方の屋敷と伝わる空き地を見たあと、今回の目的地である北条氏館跡へと向かった。
近くにさしかかったときに、狩野川という大きな川が見えた。
新緑で青くなった山が見える伊豆の野の中を、狩野川はゆったりと流れている。河川敷には草木が生い茂っていて、自然豊かな昔の河原を強く残している(写真①)。
この手の河川敷は、私にとってとても新鮮に感じられた。
私にとって河川敷や土手といえば、荒川(写真②)や隅田川(写真③)のように遊歩道や公園として整備されている場所というイメージが強い。また石神井川(写真④)や神田川のように全てコンクリートで囲われているか、もしくは埼玉の柳瀬川のように土手とコンクリートの護岸があるだけ(写真⑤の川越の新河岸川みたいな感じ)。もちろん自然と言えるものは、植えられている桜の木とか土手に生えている草くらいのものである。公園や遊歩道としてとして整備されている場所が、私にとっての河川敷なのだ。だから、河川敷に草木が生い茂っているというのは、少し珍しい。昔住んでいたところも、東京も、埼玉も、河川敷といえば必ず人の手が加わっているものだから。
※
北条氏館について書く前に、まず北条氏について話さねばなるまい。
北条氏はもともと、伊豆北条の地一帯を治めていた豪族であった。出自については桓武平氏で平直方の末裔と伝わっている。が、時政以前のことは系図が混同していたり記録が無かったりでよくわからない。北条氏について現在一番有力なのは、伊豆国府に仕えていた在庁官人(解説①)であったという説だ。
詳細な記録が残っていないので、何が本当かはよくわからない。けれども、仮に桓武平氏だったとしたら、同族の大庭氏や三浦氏、千葉氏のような大族でなかったことは確かだろう。
伊豆のいち豪族である北条氏が歴史の表舞台に登場してくるのは、平安時代も終わり、というより末期のころだった。
源頼朝が、伊豆に流されてきたのである。
源頼朝は平治の乱に敗れ、父義朝とともに落ち延びた。だが、途中ではぐれてしまい、美濃にいたところを清盛の弟頼盛の部下に捕らえられてしまう。
本来であれば死刑になるはずであったが、清盛の母池禅尼が、
「亡き家盛と似ているから殺さないで欲しい。もし殺すようなら絶食して死ぬ」
と言い出したことによって、不孝になることを恐れた清盛は、伊豆へ流罪とすることを決めた。そう一般的に言われている。
頼朝がなぜ助かったのかについては、熱田神宮の宮司を父に持つ母が皇族の中でも有力な人物とコネがあったからだとか、伊豆国が同族であった源頼政の領地だったからだとも言われている。
はじめ頼朝は伊東祐親の監視を受けていたが、祐親が留守にしているときに娘と恋仲になって子供を産んだ。このことを知った祐親は、流人の舅、それも謀反に加担した源義朝の息子の舅になったという自身の世間体を気にし、頼朝と娘との間に生まれた子供を殺した。同時に頼朝も殺そうと考えたのだ。
頼朝はこのことを伊東祐親の息子から聞いて逃亡。そのときに北条氏のもとに身を寄せた。ここで頼朝は政子と出会い、結婚した。当主であった時政は、河内源氏の棟梁である頼朝の舅となった。
出会ってから数年後。
平家の圧力で親王宣下すら受けられなかった後白河法皇の第三皇子以仁王が、伊豆の知行国司であった源頼政と組んで、京都で乱を起こした。このとき源氏をはじめとした各地の反平家勢力に令旨(王なので正確には御教書だが)をばらまき、決起をうながした。そして自身も挙兵し、頼政と合流した。
これを聞きつけた平清盛は、兵を出し、宇治にいた頼政を自害させ、奈良へ逃げる以仁王を討ち取った。これが世に言う以仁王の乱である。
以仁王の乱の後、清盛は臨戦態勢を整え、各地の反平家勢力を討伐することを決めたのであった。
清盛の魔の手は、頼朝にも迫っていた。
伊豆の国司が、清盛の義弟である平時忠になった。やられるのも時間の問題である。
同時に、彼に挙兵の大義名分を与える以仁王が残した令旨も届いていた。
そして同時期に、伊豆に流罪となっていた文覚が現れる。
文覚は髑髏を用意し、
「これが父義朝の髑髏である」
と言って、挙兵を促してきた。この髑髏が本当に義朝のものであったかは怪しいが。
時政は頼朝の平家打倒を一緒に考えた。
最初に討ち取るべきは、伊豆の目代(解説②)山木兼隆と決めた。
山木兼隆は伊勢平氏の一門で、清盛の遠い親戚にあたる。やらかして伊豆へ流されたのだが、いろいろあってコネで伊豆の目代となっていた。
「清盛の親戚を血祭りに上げる」
このことによって、平家と戦う宣戦布告と、伊豆を再び源氏の手に戻す意思表示をすることとなったのだ。
決行の日は7月17日。三島明神の祭礼で警備が手薄になっているところを狙うというものだった。
最初に、周辺の豪族に頼朝に味方するよう促した。
味方となったのは、三浦氏と千葉氏といった源氏重代の家臣であった。そこに、相模の渋谷氏のもとに身を寄せていた佐々木四兄弟や、仁田忠常や土肥実平などの周辺の豪族の一部が加勢した。
反対に敵となったのは、頼朝の乳兄弟の一人である山内首藤経清や比企能員だった。
他にも、同じく流人の境涯にあった絵師をスパイとして山木邸に送り込み、間取りを調べさせた。また、後で山木兼隆の後見人をしていた堤信遠という人物が危険とわかったので、そちらもついでに倒しておくことにした。
運命の日である7月17日。佐々木四兄弟が遅刻したというアクシデントもあった。が、今やらねばいつやるのか? ということで、挙兵は予定通り決行された。頼朝は甲冑に身を固めた時政ら90騎を見送った。鎧を身に纏った武者たちは、堂々と正道を進み、山木邸を襲撃した。
時政らが率いる源氏軍は、山木兼隆と堤信遠を討ち取り、河内源氏の勝利に終わった。
これで伊豆国は平和になったかと思われていた。が、先月倒した山木兼隆と堤信遠は、これからやって来る一大決戦の前座に過ぎなかった。相模では関東最大の平家勢力であった大庭景親が、東伊豆の伊東祐親らと合力し、3000もの軍勢を率いて、頼朝のいる西伊豆へ攻め込もうとしていた。
そして8月、両軍は相模国の石橋山で激突した。
大庭景親の軍勢3000VS源頼朝300。この時点で勝敗は目に見えていた。
この際三浦義澄が頼朝の援軍として駆けつけていたそうだが、小田原の辺りにある酒匂川が大雨で氾濫していて来れなかった。
時政はというと、大庭景親とレスバトルをした。だが、景親の方が一枚上手で、逆に煽られる形となってしまった。
その後頼朝は命からがら、相模と伊豆の国境の山に逃げ込んだ。このとき北条家の長男であった宗時が討ち死にした。
真鶴にある洞窟に頼朝は隠れていた。
山には自分のことを探す大庭景親の手下が大規模な山狩りを行っている。
頼朝は洞窟の奥で敵が去るのをただ待っていた。
隠れているときに景親の一族である梶原景時に見つかりそうになったが、見逃してもらえた。そして再起を図るべく、相模湾を経由して安房へと渡った。
石橋山の戦いの後時政は、景親と対峙した後、頼朝と同じく源氏の血を引いている武田信義を説得しに、甲斐へと向かった。
信義と時政の交渉であるが、結構難儀なものであっただろう。当時の甲斐武田氏は、頼朝たちと同格の扱いを受けていたので、プライドも高かっただろうから。そんな武田家の信義を時政は味方につけることに成功し、頼朝と合流した。
安房に渡った頼朝は、現地の豪族を味方につけ、上総、下総へと進んでいった。途中下総の千葉常胤や上総の上総広常らと合流し、その兵力は1万を超えるものとなっていた。
大所帯となった源氏軍は隅田川を越え、武蔵を平定した。
武蔵の武士たちはあっさりと降伏して頼朝の味方となったので、すぐに平定できた。そして鎌倉へと入り、景親を追放することに成功したのである。
この後景親は捕らえられ、首を斬られた。祐親は時政や義澄の親戚ということで、恩赦が下った。だが、流人であった頼朝から罪人にされかつ生かされることへの屈辱に耐えられなかったのか、息子と一緒に自害した。
この後の北条氏は、伊豆から鎌倉へと生活の拠点を移した。だが、伊豆の屋敷も使われていたようで、発掘調査で13世紀にも使われていた痕跡が見つかっている。
使っていたのは、主に時政だろう。政子が頼朝の妾である亀の前の家を襲撃したり、頼朝が実行犯の牧宗親の髻(読みは『もとどり』。解説②に詳細)を斬ったりした事件に怒り、一族を連れて伊豆へ帰っていた。また晩年は、妻と一緒に将軍を源実朝から同じく源氏一族の平賀朝雅にしようとしたが、そのことが露見し、息子義時に政界を追放されたから。そのとき伊豆で暮らしていたのが、時政なのではなかろうか。
他にも語りたいことは山ほどあるが、詳しいことは小説で語ろうと思うので、この辺にしておく。
※
話は現代へと戻る。
狩野川の土手を伝って歩いた先に北条氏館跡があった。
入口には「史跡北条氏館跡(円成寺跡)」と彫られた小さな石碑とのぼりが風にたなびいている。そしてその真ん中に砂利が敷かれた通り道があった。
かつて北条氏の館があったと思われる場所を巡るべく、私は砂利道を歩いて行った。
(続く)
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