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【エッセイ】尾張⑤─熱田神宮と若き日の織田信長─ 『佐竹健のYouTube奮闘記(96)』

 杜の中にあった立派な塀の目の前に、私は立っている。

 塀は土壁で、厚さは1メートル、高さは2メートル近くあっただろうか。土壁には漆喰が塗られておらず、中に瓦らしきものが埋め込まれていた。

(これが前々から見たかった信長塀なのかな?)

 そう思った私は、辺りに看板が無いか見渡してみる。

 看板があった。看板にはしっかりと「信長塀」と書かれていた。

(やっぱりここで合っていたか)

 4年前大河ドラマ『麒麟がくる』のラストにある紀行で見た塀と同じだった。

(やっぱり立派だな……)

 こんなに立派な塀は見たことがない。昔京都で見た誰かの屋敷すらもここまで厚くて高くは無かった。

(看板読んで見よ)

 私は信長塀の解説を見てみた。

「桶狭間の戦いの際戦勝祈願をした。勝った信長は、その感謝の意を示すべくこの塀を献上した」

 看板にはこのようなことが書かれていた。

(そういえば『国盗り物語』にそんな描写あったな……)

 私は高校のときに読んでいた司馬遼太郎の『国盗り物語』に、信長が熱田神宮に戦勝祈願していた描写があったことを思い出した。神や仏とかを信じていない信長が、窮地に及んで熱田神宮にお参りしたから、老臣たちが、

(あのうつけ殿も窮地に及んで真人間に戻ったか……)

 みたいに言い合っていたみたいな描写があったのには少し笑った。


   ※


 桶狭間の戦いの話は知っている人も多いかもしれないが、よくわからない人のために書こう。

 駿府にいた大大名の今川義元は、上洛をすべく軍を出した。

 軍は順調に東海道を経由し、遠江、三河、と進み、尾張の手前まで来た。

「今川義元、征西を開始する」

 この一大事件に、当時の織田家の当主であった織田信長は、もちろん危機感を感じていた。一応今川軍の進軍を阻むための砦を築くなどの対策はしていたが、問題は他にもあった。当時の織田家、特に信長の系統には味方は少なかったことだ。

 まず、信長は他の織田家や兄弟とも仲が悪かった。

 織田家にはいくつかの系統があった。清州の織田家、岩倉の織田家、犬山の織田家といった感じで。そのうち勝幡にいたのが、信長の織田家であった。仮に弾正忠家としておこう。

 弾正忠家は伊勢とを結ぶ交易の拠点をおさえていたので、豊かであった。斎藤道三の治める美濃を攻めたり、逆に攻めてきた義元の軍勢を撃退したりしている辺りから、その勢いは本家をもしのぐほどであったと思われる。この関係から、妬まれることも多々あった。

 また、信長には信行という弟がいた。

 信行は信長の弟で、聡明な青年だった。それだけでなく、母は信長と同じ正室の土田御前。頭も良くて、血筋もいい。古来からの母方の実家も重視に加え、中世の実力主義の風潮も相まって、織田家臣団の中での彼の声望は日増しに高まっていた。そしてその存在は、信長が跡を継いだ後も高まり続けていたので、脅威となっていた。

 若き日の信長は、敵対していた本家や分家、そして自身と正反対の兄弟とバチバチの争いを繰り広げていたのである。

 また、信長が「尾張の大うつけ」や「たわけ殿」と呼ばれるほど評判が悪かった。これに関しては、歴史についてあまり知らない人でも知っている人が多いのではなかろうか。

 信長は若いころから奇行が多かった。

 茶筅髷に袖のない湯帷子、帯の代わりに結った縄とそこに結び付けたたくさんの袋。どこからどう見ても、城主の若君には見えない格好である。こんな感じのなりで、馬に乗って城下の村々を駆けたり、村の若者と相撲をとっていたりしたらしい。

 極めつけは、父信秀の葬儀の時であろう。なんと、父の位牌に抹香の灰をつかみ、投げつけたのである。

 父が亡くなっても治らない信長の奇行。これに呆れた守役の平手政秀は、彼を諫めるために自害したと伝えられている(最近では政秀の自害は信秀が亡くなった後を追うためだったと言われている)。

 ならば、帰蝶の実家である美濃の斎藤家を頼ればいい。そう思った人もいるかもしれないが、桶狭間以前に舅の道三が、長良川の戦いで義龍に殺されている。このとき信長は、道三を助けるべく兵を出しているから、義龍との間柄は当然悪い。なので、援軍を出してもらおうと考えても無理だったのだ。

 先代から受け継いでいたゴタゴタや自身の日ごろの行いのせいで、数や団結といった面で信長軍は不利だった。


 義元率いる今川軍は境川を越え、尾張へ入った。

 織田軍の築いた砦を次々に破り、総大将である信長のいる清州を目指して進んでいた。その過程で、織田家臣の中に義元に内応した者も出てきた。義元の魔の手は、かつて信長のいた那古野まで迫っている。

 義元の軍勢が那古野まで迫った日の早朝、信長は、

「湯漬け持ってきてくれ」

 と従者に命じた。

 作られた湯漬けを掻き込んだあと、『幸若舞』の「敦盛」の一節を唄い、舞った。

人間五十年
下天のうちを
比ぶれば
夢幻の如くなり
一度生をうけ
滅せぬ者のあるべしや

 ──人間の寿命なんて、仏や天人の住まう世界に比べたら、夢や幻のようなものである。一度この世に生まれて、死ななかった者は果たしていたであろうか?

 現代語訳すると、大体こんな感じである。

 このときの信長は、死を覚悟していたのであろう。もうどうにでもなれという思いと、どうせ死ぬなら武将らしく派手に散って伝説になってやる。舞いにしては短いが、覚悟がきまったものであったので、迫力あったものであるのは間違いない。

 舞を舞った後、信長は甲冑を身に纏い、軍を出した。そして途上にあった熱田神宮で戦勝祈願をした。


 今川義元はというと、兵力を分散し、田楽狭間で休憩を取っていた。信長ごときすぐに倒せるから休んでもいいか、と考えていたのであろう。

 休憩している途中ゲリラ豪雨が降ってきた。雨音が強いので、音が聞こえない。

 そのまま休憩しているときに、義元のところへ信長の軍勢が乱入してきた。

 義元は持っていた刀で応戦したが、信長の部下二人の見事なコンビプレーには勝てず、討ち取られてしまった。

 この後信長は今川義元を破ったことから、「尾張の大うつけ」や「たわけ殿」から、強い大名として評価を受けることになった。

 これが、世に名高い桶狭間の戦いの顛末である。あくまで『国盗り物語』や『麒麟がくる』で知った人間の書いたことなので、どこまで合っているかはわからないが。


   ※


「意外と義理深かったんだな」

 私は信長の意外性に感心した。信長といえば、伊勢長島一向一揆を力でねじ伏せたり、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたり、石山本願寺と10年戦争したりと、宗教関係にはやたら厳しい印象がある。でも、こうしてお世話になったところにはお礼をしているところを見ると、意外に義理深い。

 同時に、当時の信長がいかに切羽詰まっていたのかがわかる。様々な記録を見ていると、信長は合理主義者だったという記述が見受けられる。そんな人物が神頼みをしたくなるのだから、よほど勝てるかどうか不安に思っていたに違いない。

(そういえば信長のお父さんも御所の塀直してたな)

 信長塀で思い出したが、信長の父信秀は、度重なる争いで荒廃していた御所の塀を補修するため、資金を提供したという話があったことを思い出した。

「信秀・信長父子と塀」

「織田家と神道」

 縁を感じる。補修するのに資金を出したか、自ら造ったかの違いがあるが、この父子には塀に縁がある。それも、神道関係の。神道との繋がりでいえば、織田家は元々越前国の織田剣神社の神主の家から出た分家。そう考えてみれば、この縁は必然とでも言うべきものなのかもしれない。

(さて、信長塀も見たし、次の目的地へ行きますかね……)

 ずっと見たかった信長塀を見たあと、私は再び名城線の駅を目指し歩いた。

(続く)


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佐竹健
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