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フェミニズムにとっての〈理想の男性像〉とは?

書評:石川優実 責任編集『エトセトラ VOL.4 特集:女性運動とバックラッシュ』(エトセトラブックス)

本書のレビュアーは、良くも悪くも、見るからに、ほぼ女性に限られているようだ。かく言う私は、定年前の冴えないオジさんである。

私は私なりに、長らく「差別問題」に関心を持ってきた。そして、可能なかぎり関わりを持とうと努力してきた。私が、主にかかわった差別問題とは「部落差別」と「外国人差別」で、後者に関しては約20年にわたって、通算千人以上の「ネトウヨ」と(したくても、議論にはならないから)ケンカをしてきた実績がある(それで、Twitterやmixiのアカウントも凍結された)。

「あんな奴らとケンカしても、労力の無駄だ」とおっしゃる方も多いだろう。私も基本的には同じ考えで、できればくだらないケンカなどしたくはないというのは、「経験者(実践者・当事者)」としての偽らざる思いなのだが、目の前で、差別的かつ下品なことを書かれると黙ってはいられない性分なので、これはもう仕方がなかった。
それに、本誌の記事で、石川優実(P55ほか)、遠藤まめた(P71)、楠本まき(P75)の各氏が書かれているとおり、そうした「闘い方」は「誰にでもできることではないけれど、誰かがやらなければならないこと」なのである。
言い換えれば、自分にはできないから「あんなことは無駄だ」などと言うのは、イソップ寓話の「酸っぱい葡萄」理論にすぎないとも言えるだろう。
そもそも、世間の主流に反抗する運動において、「効率性」ばかり気にしていたら、打算的な悪しき政治性に巻き込まれる(闇落ちの)恐れも低くないだろうし、せっかく「切込隊長」をやってくれる奇特な人の意欲を削ぐことにしかならないのは、石川の、

『 ネットのバッシングについて、みんな「ほっておけばいいじゃん」って言われるのがいやだったんです。とくに味方だと思っていた人たちにそれを言われるのがきつかった。』(P55)

という言葉にも明らかで、そうした「親切のつもり助言」の問題性と、そうした「多くの助言者たち」の無認識がよく表れていると言えるだろう。

本誌を読むようなフェミニズムに関心のある女性なら、石川のこの言葉を読んで「そうだよね。せっかく頑張って抵抗しているのに、それを無駄みたいに言われたらキツイよね」と共感することだろう。
しかし、これが石川のような「身内の有名人」の言葉ではなかったら、果たしてそこまで物分かりの良い共感を示すことができただろうか。単に「言ってることは悪くないけど、あんな奴らとやり合おうなんて人は、もともと普通じゃないんじゃない」なんて、差別的に切り捨ててしまうのではないだろうか?

私が、こんな「イヤなこと」をいうのは、たしかに「虐げられた者どおしが励まし合う」ことも大切だけれども、同じくらい「自己批判としての内部批判」も大切だと考えるし、その必要がない「集団」や「運動」など存在しない、と考えるからである。

もともと私が、フェミニズムには、さほど関心を向けなかったのは、「女性差別」の問題が、「部落差別」や「外国人差別」とは違って、「男性」である私には「わかりにくい」側面があったのと、女性たちは「女性たちだけで運動をする」ことに満足しているように見えたからだ。
つまり、ろくに女性のことも知らない男が「私も、あらゆる差別は許されないと思うし、当然のこと、女性差別も許されない」などとヌルいことを言った日には、女性運動家たちから、かえって冷たい目で見られそうだと、そんな感じがあったので、なんとなく「一人で全部はやれないので、そちらはお任せしよう」という感じだったのだと思う。

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今回本誌を読んだのは、他の本のレビューを読んでいて、他の人と、ちょっとニュアンスの違った感想を書いている人がいたので、どんな人だろうかとその人のホームをチェックしたところ、本誌のほか、フェミニズム関係の本を読み始めた女性だとわかり、そのあたりが評価の違いに現れていたのだろうと思ったので、本誌を読んでみることにしたのである。

私は、端的に言って「マッチョ」タイプだと自覚している。簡単に言えば「仮面ライダー」に憧れた人間で、影のある「孤独なヒーロー」に痺れ、「徒党を組んで、数に頼む」人間が好きではなかった。だから最近の仮面ライダーみたいに、複数のライダーが協力して、特別に強い怪人(1人)をやっつける図というのは、「袋だたきにしている」みたいで、あまり好きになれなかった(したがって「戦隊もの」は視なかった)。そんな人間だ(要は「高倉健」や「一匹狼」好きだとも言えよう)。
詳しくは書かないが、以前「パレスチナ」問題に関わる会合に何度か参加したこともあって、その時も、どこかその馴れ合いめいた(自己批評性を欠いた)盛り上がり方に、醒めるものを感じて、参加しなくなったということがあった。

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(「団結」と「数の力」は、時に同じである)

もちろん、現実を動かすには「連帯」や「団結」が必要なのはわかっている。そのためには「効率性」や「妥協」や「馴れ合い(褒め合い)」も必要だろう。だが、だからこそ、その分「自己批判としての内部批判」が必要不可欠ではないのかと、私などは思うのだが、本誌にかぎって言えば「フェミニズム運動の初心者向け」ということもあってか、どうにもそのへんが弱いと感じられた。

本号において「フェミニズム」について自己批評的な視点を持ち得ているのは、飯野由里子の論文『フェミニズムはバックラッシュとの闘いの中で採用した自らの「戦略」を見直す時期にきている』(P85)くらいではないかと思うのだが、これとて「過去のフェミニズム運動」を批判するものではあっても、それが「自分自身の問題であった」という点を、どれくらい自覚しているのかは、いささかあやしい。
もちろん、「過去の誤ち」を反省して「今」に生かすというのは「必要」なことだけれども、その「過去に関する反省」において最も重要なのは「過去の誤りも、当時の当事者としては、決して間違っているとは思っていなかった」という点で、だすれば「今の私たちもまた間違っている部分があるのかもしれない」と、当然そう考えてしかるべきなのだ。だが、「過去の誤り」を、完全に「他山の石」にしてしまっている気味が、この論文にさえ感じられるのである。「彼女たちは」間違っていた、という「党派性」を滲ませて。

つまり、自分たちの掲げる「理想」を信じることは必要なことだし、仲間同士で「承認を与え合う(相互承認)」も必要だろう。だが、それだけでは不十分であり、それこそが「誤り」のもとなのではないだろうか。

「そんなこと、男のあなたに言われたくない」と言う人も、きっといるだろう。一一しかし、私の言っていることに「男も女もない」と思うのだが、いかがだろうか?
そして、もし私のこの認識が正しいかったとすれば、「そんなこと、男のあなたに言われたくない」と言った女性は、その無自覚な「性差別」を反省しなくてはならないはずだ。

私は何も「性差別は、男にも女にも有って、お互い様だ」などという、つまらない誤認をくり返したいのではない。男の方が、女性を差別してきたこと、今も差別しているという事実は、あまりに明らかなのだから、「おあいこ」だなどという情けない言い訳を「男なら(女だって)」するべきではない。

しかし、一人では何も言えない人も、仲間が大勢いれば、つい「強くなった気になって」、慎重に自己検討することもなく、数にものを言わせて大声を張り上げがちなのではないか。そこに、男も女もないのではないか。
だから、「仲間と励まし合うこと」は素晴らしいことだけれども、「運動誌」であるからか、本誌では決して語られない「徒党の罠」についても、もっと考えてもいいと思う。それを怠れば、結局はそこが「弱点」となって、敵に付け入られることにもなるのだから、「私たちは正しい」という自信を持つと同時に、自信があるからこそ自身を疑うこともできるという「強さ」を、本誌にも求めたいと思う。

本誌では、「男性」一般の持つ差別性やその歴史が語られるけれど、では、具体的にどんな男性が「正しい人間」なのか、その具体像を、もっと語っても良いのではないかと思う。
子供の面倒を見てくれる、洗い物をしてくれるというのも、もちろん良いだろうが、女性とともにフェミニズムを闘う男性の姿が、かけらも見えてこないことに、私は男として「物足りなさ」と「疑問」を感じたので、以上、思いつくままに感想を書かせてもらった。

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(「女性を守る騎士」は古いのか?)

私は、ネトウヨと20年もケンカしてきたような人間だから、もちろん、まともな議論なら尚更大歓迎であるし、必要ならケンカも辞さない。
人の選択をとやかく言う気はないけれども、その選択の是非については、遠慮なく意見を述べさせてもらう。私は「政治的」な損得打算がなにより嫌いで、男も女も、老いも若きも、国籍も肌の色も関係なく、ただ一対一の、忌憚のない対話を求めたいのである。

初出:2021年5月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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